彼女を意識したのはほんの些細なことから。
教室ですれ違った一瞬に聞こえた、聞きなれた音楽。
それは自分がいつもつけているヘッドホンから聞こえるものと全く同じで。
驚いて振り返った視界に見えたのは明るい声を上げて友達と笑い合うクラスメイト。
サングラス越しの景色がやけにクリアに見えた。
それが、俺と彼女のファーストインプレッション。





FALL IN YOU





初めて彼女を意識してからしばらく、なんとなく彼女を目で追ってみた。
自転車で登校してくる彼女を朝練中のグラウンドから。
授業中に教師の話を聞く彼女を隣の列の三つ後ろの席から。
友達と話に花を咲かせる彼女を呼び出された帰りの廊下から。
風を受けてさらさらと揺れる黒髪。
ピッと伸ばされた姿勢のよい背筋。
意志の強そうなまっすぐな瞳。
時が過ぎるごとに新しい彼女を知ってゆく。
小さな興味だったはずなのに、今では知りたいことがもっともっと増えてきていて。
『話をしてみたい』
そう思い始めたのは彼女を意識してすぐのことだったのに、未だ実行できていない自分に司馬葵はかなりうんざりしていた。
例えばこんなとき、同じ部活でセカンドを務める彼の友人ならばすぐにでも彼女に話しかけることが出来るだろうに。
そう出来ない自分を歯がゆく思いながらもやはり話しかけることは出来ず、小さくため息をつきながら司馬は部活へ行くために鞄を持って立ち上がった。



時はすでに放課後。
日直だったため教師に用事を言いつけられた司馬以外もう教室に生徒の姿はなく、最後に窓の鍵を確認してから電気を消し司馬も教室を後にする。
最近ずっと抱いている『彼女に話かける』という目標を今日も実行することが出来ず、司馬の足取りが自然と重くなる。
そんな時廊下の先から聞こえてくる軽い足音に司馬はほんの少しだけ顔を上げた。
こちらへ向かって少しずつ大きくなってくる姿。
その人物に気づいて司馬は思わずサングラスの中の目を丸くした。
近づいてくるその人は、ここしばらくの間ずっと司馬の思考を占領していた張本人で。
少女は司馬を見とめるとニコッと笑った。
「バイバイ、司馬君」
そう言ってそのまま司馬の横をすり抜けるとガラリと音を立てて教室へと入っていく。
残されたのは少女だと気づいた瞬間に息を止めてしまった司馬だけで。
ドキドキとうるさいくらいに波打つ心臓。
自分でもわかるくらいに熱を持って赤くなっていく顔。
どうして、とか、どうしよう、とか焦りすぎてこんがらがっていく思考回路。
再びガラリと背後で音がして、司馬は反射的に振り返った。
そこには忘れた教科書を取りに来たらしい少女が一冊の本を手に立っていた。
先ほどと変わらない位置にいる司馬に少し首を傾げ、口を開く。
「司馬君って野球部だったよね? 今日は部活、いいの?」
少女に言われ、司馬は慌てて首を横に振る。
本当は少女に会った時点で司馬の頭から部活などスッポリ抜け落ちてしまっていたのだが。
けれどそれを知らずに少女は笑う。
「じゃあ途中まで一緒に行こうか?」
あまりにも嬉しすぎる誘いに、司馬は一瞬幻聴ではないかと自分の耳を疑った。
少女はそんな司馬の答えを聞くまでもなく、すたすたと歩き出す。
司馬もハッと我に返って、戸惑いながらも少女の隣に並んだ。
「司馬君と話すのって初めてだよね?」
少女の言葉にコクンと頷く。
「私は。一年間どうぞよろしく」
楽しそうに笑いながら言われ、司馬は少し顔を赤くしながらコクンと頷く。
本当は、名前なんてもうとっくに知っていたけれど。
それでも、自分の名前を彼女が知っていてくれていたなんて思ってもいなかった。
ましてやその綺麗な声で自分の名前を呼んでくれるなんて。
司馬の心がじんわりと温かくなる。
感動しきりの司馬を見上げて少女が尋ねた。
「司馬君てさ、いつもヘッドホンしてるよね。どんな音楽聴いてるの?」
ドクンと鼓動が跳ねる。
トクトクトクトクと心臓が速さを増していく。
司馬ははやる胸を抑えて、着けていたヘッドホンを片方はずして少女へと差し出す。
その意味を取り違えることなく、少女は受け取ったそれを耳につけ、そして。
「QUEEN!」



少女が反応を示すまでの間まるで判決を待つ重大犯罪人のような顔をしていた司馬は、少女のその言葉を聞き、ホッと肩を下ろした。
そして嬉しそうにほんのりと微笑む。
少女はそんな司馬を見上げるとキラキラとした瞳で声を上げる。
「司馬君もQUEEN好きなの!? 私もそう! うわーすごい嬉しい!」
同志を見つけて嬉しそうに笑う少女。
その笑顔は紛れも無く自分だけに向けられたもので。
胸が熱くなって、涙が浮かんできて、それでも司馬は目の前の少女から目を離せなかった。
情けない顔を隠すサングラスにとてもとても感謝しながら。
「私ね、すごく洋楽が好きなの。邦楽も聞くけど、やっぱり一番は洋楽かな」
笑いながら話をする少女の横顔を見ながら、司馬もコクンと頷く。
好きなんだろうな、とは思っていた。
一番最初、彼女を意識したあの時にも、小さな声で口ずさんでいたくらいだから。
あぁでも、こんな顔が見れるのならば、もっと早くに話しかければよかった。
もっともっと早くに、少女の近くに行きたかった。



司馬にとっては今迄で一番短く感じた道のりも終わり、靴を履いて外に出れば、遠くで自分の行くべき部活の練習している声が聞こえる。
「それじゃ司馬君、また明日ね」
黒のローファーを履き終えた少女が明るく笑って言う。
その笑顔が眩しくて、もう少しだけでも傍に居たくて、司馬は口を開いた。
けれど声は出ず、言葉も紡げず、何も言えなくて悔しそうに口をつぐむ。
・・・・・・情けない。
こんな自分は嫌なのに、こんなんじゃ何時まで経っても『目標』なんて果たせない。
俯いた司馬に不思議そうな視線を向けて、少女は少しだけ笑った。
「司馬君って洋楽のCDとかいっぱい持ってるの?」
少女の言葉に戸惑いながらも少しの間を空けてコクンと頷く。
「じゃあ今度、お薦めのヤツとか貸してくれるかな?」
がばっと司馬が顔を上げた。
目の前には変わらない笑顔で笑っている少女。
返事を促すように首を傾げられて、司馬は慌てて何度も頷く。
少女は満足そうに笑って、それじゃ、と言った。
「バイバイ司馬君。また明日!」



走り去っていく少女の後ろ姿を見ながら司馬は思った。
小さな興味だったはずなのに、いつのまにかこんなにも強くなってしまった気持ち。
目で追ってみたのが、いつのまにか追わずには居られなくなっていた。
彼女の存在が自分の中でどんどん大きくなっていく。
笑ってほしくて、こちらを見てほしくて、その声で自分の名前を呼んでほしくて。
限界を知ることなく増えていく願い。
あぁそうか、この気持ちが。



「・・・・・・好き・・・」



ザァッと風が吹き付けた。
ざわざわと波立っていくこの心。
胸に湧き上がるのは愛しさか切なさか、自分のことなのに本当に判らない。
じんわりとした熱い涙が目頭に浮かんで。
言葉にしたからには止まらない。
どうしよう、どうすればいい?
彼女を愛しいと思う、恋しいと思う、大切だと思う、幸せで居てほしいと思う。
あぁどうか、そのすべてを自分が彼女に与えることが出来たなら。
そして彼女がそれを受け止めてくれたなら。
そうしたら、きっと。



ずいぶんと遅れ、もう行ってもろくに練習の出来ないだろうグラウンドへと司馬は足を向けた。
頭の中では明日少女へ貸すCDのラインナップを考えながら。
口元には無意識のうちに小さな笑みが浮かぶ。



初めてのこの願い、初めてのこの想い。
叶えるためには判らなくても進むしかない。
この気持ちが、自分にとっては紛れも無い真実なのだから。





2002年5月19日