はらはらと涙が女の頬を伝っている。長い睫毛の合間から溢れ出し、目尻から小さな宝石のような形を作って、鮮やかな唇の横を通過し、細い顎の先で少しばかり時を過ごしてから、空中へと落ちていく。一連の過程をXANXUSは熱もなく見つめていた。女は美しかった。豊かな黄金色の髪は楚々として纏められていたが、垣間見えるうなじやピアスの光る耳朶などは十分な色気を感じさせる。場を弁えて黒のシンプルなスーツを身に着けているけれども、その姿態が華やかなドレスに映えることもXANXUSは知っていた。化粧も派手すぎず、かといってアイラインひとつ取っても手を抜かれていない。ストッキングに包まれている足は肉欲を忘れていないし、高いヒールのパンプスを履きながらも足を斜めに揃えている座り方は、女性の振る舞いの手本のようだ。女は美しかった。泣き顔は醜くなるのが通説だが、女は泣いていてもなお美しく在れる稀有な存在だった。はらはらとまたしても雫が清潔なハンカチに吸い込まれていく。
「おい」
「分かっております。分かっております、XANXUS様。見苦しい姿をお見せしてしまい申し訳ありません」
謝りながらも、女は涙を止めようとしない。しゃくりあげることもなく、声を上げることもない。ただ静かに涙だけを流し続ける女はXANXUSの部下であり、当然ながらヴァリアーの戦闘員だった。名は、という。年の頃はXANXUSよりもひとつかふたつ年上で、ボンゴレリングの守護者候補には選ばれなかったけれども、それなりに腕の立つ人間だ。少なくともXANXUSが名を覚え、近くに寄らせるくらいにはその実力を認めていたし、存在を許してもいた。失敗すれば死だけが待つ過酷なミッションを着実に乗り越え、弱者は屠られるばかりの暗殺部隊で未だ生を得ている。女は美しかった。そして武にも優れていた。細い腰に挿す拳銃は身を守る術ではなく、相対する者を葬るための道具だった。
「到着しました」
運転手が告げると同時に車が止まる。入り組んだ裏路地は狭く、これ以上入っていくことは出来ない。ありがとうございました、と女は礼を述べてから自らドアを開けて降り立った。石畳にヒールの音が僅かに響いて、XANXUSもそれを追うように車から出る。ボス、と運転手の声がしたけれども構いやしない。女は一瞬目を見張ったようだったけれども、それでも何も言わずに歩き始めた。とうにハンカチはポケットの内に収められており、それでも止むことのない涙は受け止めるものを失くして地面へと吸い込まれていく。昼間でも薄暗い裏路地は、夜になれば闇と何ら変わらない。それでも惑うことなく歩を進める女の背中を、XANXUSはただ見下ろしていた。静寂を破るようにして届く喧騒。怒号に銃声、いくつもの足音に離れていても漂う血の臭い。目の前の肩がゆっくりと持ち上がり、そして静かに落とされていく。数回左右に振られた頭の向こうで、女は何かを呟いたようだった。顔を上げ、歩みを速める。硬質な足音はあっという間に目的地に辿り着き、幾人もの男たちの前へ躍り出た。パァンと、威嚇の一発が場のすべてを女へと集約させる。
「ボンゴレファミリー独立暗殺部隊ヴァリアー所属、。我が主XANXUS様の命に従い、あなた方を一掃致します」
女の声は高すぎず低すぎず、冬の夜によく映えた。抗争を邪魔された男たちが、目標を互いから女へと変更する。美しく、艶めかしい女がひとり、のこのこと戦闘の真っ只中にやってきたのだ。しかも見る限り武器は拳銃一丁。捕らえてどう扱うかは想像に難くなく、血と興奮に染まっていた空気が俄かに下卑たものへと変わる。カスが、とXANXUSは影の中で吐き捨てた。女がこんな雑魚どもにやられるような人間ならば、自分の傍になど置きやしない。たやすく篭絡できる女であったならば、どんなに楽だっただろう。
出方を伺う沈黙は、男たちの言葉を発しようとした口の動きに破られた。女の早撃ちが一瞬のうちに男ふたりを死へと追いやる。騒然とした場に迷うことなく女はトリガーを引き続け、この狭い路地裏で相手を着実に仕留めていった。かんかんというヒールの地を蹴る音や、男たちの罵声、女のナイフが肉を裂く音などをXANXUSはただ聞いていた。手を貸すつもりなど毛頭無かったし、女もそれを望まないことをXANXUSは知っていた。見上げる路地裏に月はない。

出会いは、光溢れる日中の午後だった。仕事柄と地位から陽の高いうちは滅多に出歩かないXANXUSは、その日も例に漏れずボンゴレファミリーの本拠地で暇を持て余していた。スクアーロをいびり倒すのにも、レヴィの賛辞を聞くのにも飽き果てて、革張りの長椅子に寝転がって惰眠を貪る。窓から差し込む光が眩しくてカーテンを閉ざすよう命令するにも、人払いをしたため近くにはメイドの影すら見当たらない。舌打ちして立ち上がり、窓へと歩み寄った。眼下にあるのは広々とした中庭で、ボンゴレ九代目の性格を現すかのように、そこは穏やかで慈しみに溢れた空間となっている。芝生はみずみずしく、噴水はきらきらと光っており、花がところどころで咲いている。そんな中、昼間だというのに黒い点を見つけてXANXUSは眉根を顰めた。マフィアの纏うスーツとは違う。けれど、深い黒。上からでは、それが何だか分からない。
しばらく睨み付けていると、防弾硝子の扉を開けてボンゴレ九代目が中庭へとやってきた。黒い点が動き、ベンチから立ち上がる。そこでようやくXANXUSは、その黒い何かが人間であることを察した。控えめな円を描くシルエットは、おそらくスカートなのだろう。深く頭を下げた所作からしても、ファミリーの庇護を受けている人間のようだ。正体が分かれば途端に興味も失せ、XANXUSは大口を開けて欠伸を浮かべた。ボンゴレ九代目と視線が合う。超直感というあれなのか、九代目はXANXUSに向かって柔らかに微笑むと、何かを黒い点に告げたらしい。スカートが僅かに形を変えて、全身で存在が振り向く。光溢れるその空間で、XANXUSは相対した。すべての加護を受けているかのように、眩しく、華やかに、女が微笑む。美しかった。かすかに覗く黄金色の髪が輝いており、黒に抱かれながらも純白の穢れない清さを感じた。
女は名を、といった。神との結婚を誓った、聖職に生きる人間だった。

路地裏から喧騒が消えた。退屈に閉じていた瞼を開き、影の中から一歩を踏み出す。男ばかりの屍の中で、ひとり立ち尽くしている女は未だ頬を涙に濡らしていた。白い指の先から拳銃を滑り落とし、瞼を閉じて両の手を組む。口元に近づけて目を閉じる様は祈り以外の何物でもない。それでも赤い唇は言葉を綴れど音にはせず、十字も切らない。女から神を奪ったのは他でもないXANXUSだった。教会は親を失った身寄りの無い子供たちを大勢保護し、養育している。その存在を盾に取れば女を頷かせるのは容易かった。おまえがヴァリアーに入れば、教会と子供の後見をボンゴレファミリーが担ってやる。逆らえばどうなるかなんて口にはしなかったけれど、それは言い訳でしかない。守るために殺戮者になれと告げられた瞬間、顔色を失った女の姿をXANXUSは今も覚えている。鮮やかな唇が色を失い、絶望に染まったその瞬間を。
女へ向かい、XANXUSは近づいた。流石に大人数を相手にしたからか、女は二の腕と脹脛に傷を負っているらしかった。ストッキングは伝線してしまっているし、タイトスカートには先程まで無かった不恰好なスリットが出来てしまっている。白いブラウスはそれでも第一ボタンまでしっかりと留められており、髪は紐が切れたのか背中に流れて首筋を隠していた。女は祈っている。人を殺した懺悔か、教会と子供の無事か、それともXANXUSへの恨み言か、否、それらすべてか。XANXUSはそんな女の姿を、いつも見ていることしか出来ない。光溢れる存在をこの手に掴んだというのに、それなのに。
「・・・・・・終了しました、XANXUS様。お待たせしてしまい申し訳ありません」
銃を拾い、腰に挿して女は振り返る。その頬には涙の痕が痛々しいくらいに刻まれていた。





飛び込んでおいで
僕の胸へ





―――例えば。例えば、服を贈ればいいのか。修道服でもスーツでもない、純粋に女に似合う柔らかな色のワンピースをやればいいのか。例えば、拳銃を取り上げればいいのか。叩き込んだ殺人の手法を、すべて忘れろと命じればいいのか。例えば、日常に帰してやればいいのか。悪い夢だったと思い込ませ、神と子供に囲まれて穏やかに暮らせと言えばいいのか。
そのどれもが適当で、そして不適当だとXANXUSは思う。少なくとも、女はもう日常には戻れない。手を血に染めて、それでも何事も無かったように子供たちを抱きしめることの出来るような女ではないと知っている。じゃあどうすればいいのか。XANXUSには分からない。どうすれば女は黒以外の服を着て、涙を流すことなく立ち上がり、あの日のような笑顔を浮かべてくれるのか。分からない。XANXUSに出来るのは女の腕を掴み、自分の方を向かせることだけ。
「おい」
「はい」
「おまえは何時になったら、俺のことを愛するようになる」
音にして初めて、XANXUSは己の気持ちがどこにあったのかに気が付いた。自分はただ、愛されたかっただけなのだ。この美しく、強い女に。ただ傍にいて、微笑み、抱き締められたかった。受け入れられたかったのだ。たったそれだけのことだったのに、酷い遠回りをしてしまった。愛した女を血に染めて、微笑みを奪ったのはXANXUS自身。突然の言葉に目を瞠っていた女も一度唇を開き、そして閉じた。睫毛を戦慄かせて瞬きをし、頬と唇をくしゃりと歪める。それでも女が見せたのは笑顔だった。あの日、XANXUSが見入った瞬間と同じように。太陽ではなく月に照らされて、ただ美しく、ただしなやかに。
「・・・・・・それを先に仰ってくだされば、わたくしは何を恐れることもありませんでしたのに」
酷い人。呟いた女の目尻から、またしても涙が零れた。今度こそ手を伸ばして、XANXUSは指先でその雫を拭った。手袋を介して湿った感触が伝わり、素手でなかったことに今更ながらに苛立つ。それでも女は摺り寄せるようにして、XANXUSの手のひらに自身の頬を押し当てた。もう片方の手で顎を掴む。上向かせて顔を近づけても女は抵抗しなかった。静かにXANXUSを見上げる瞳に、一番最初に口付ける。謝罪の意を込めてのそれに、女が小さくはにかんだ。後はもう、ただ強く、強く。
女を引きずり堕としたことを、XANXUSは後悔などしなかった。神が取り戻しに来ようとも蹴散らしてやる。そう告げれば女は困ったように、それでいて幸福そうに笑った。もう怖くはありません、そう囁いて。





2009年1月18日
(「Tears and Love」様参加作品)