アスタロス様とベルフェゴール様は、わたくしのお仕えする国の王子様でした。この国の未来を担うはずだった、若き力。双子としてお生まれになったお二人は、どんなときでもご一緒でした。
手を繋いで走っていかれるお二人を見送るのが、わたくしのいつものお仕事でした。





むかしむかしのこわれたはなし





わたくしが王宮にお仕えするようになったのは、十歳の誕生日を迎えたすぐ後のことです。そんな子供がどうしてとお思いになるでしょうが、祭典や式典などにおきましては子供の方が重宝されるのです。成熟した女性の魅力は神聖な場において不適切だとされるのでしょう。まだ性別を感じさせない、無垢な子供の使用人は王宮に何人もいました。わたくしもその一人として、王様と王妃様にお仕えすべく召し上げられました。それが十歳のときでした。

アスタロス様とベルフェゴール様にお会いしたのは、わたくしが王宮で一年を過ごした頃でした。もちろん使用人として、お名前もお姿も存じておりました。この国の将来を担う、二人の王子様。お歳はわたくしよりも二つお若く、常にお二人ご一緒におられました。勉強の時間も、武術の時間も、遊びの時間もご一緒で、双子であられるということもあり、お二人を見極めることは難しく、使用人の間ではどちらの方かを当てるというゲームさえ起こっておりました。小さな冠をその頭上に飾られ、お二人はいつも明るい笑顔を浮かべておられました。
わたくしがそんなお二人と言葉を交わすことになったのは、本当に偶然のことからでした。

当時のわたくしのお仕事は、使用人の手伝いの手伝いで、床や靴磨きがほとんどでした。料理や庭木の手入れは専門の方が、王様や他の王族の方々には専属の、大人の使用人がついており、わたくしのような子供は式典のとき以外は地味な仕事ばかりを与えられ、窓を磨いて一日を過ごすことも珍しくないことでした。単調なお仕事でしたが、嫌いではありませんでした。掃除が好きなわたくしは、毎日そこそこに楽しみながら、床や窓を磨いていました。
ある日、王宮の一階の窓の、外側を拭いているときでした。背の高い窓は脚立を使わなくては届かず、木で出来たそれに乗り、懸命に手を伸ばして、わたくしは窓を磨いていました。お仕事が終わったら、使用人仲間のミーナとクッキーを食べる約束をしていたのです。厨房で働いているコックさんがこっそり分けてくれるクッキーはとても美味しく、わたくしとミーナの週に一度の楽しみでした。鼻歌を歌いたい気分でしたけれど、お仕事は静かに黙ってやるよう教えられています。だから心の中で歌を歌いながら、窓を磨いていました。そのときでした。
乗っている脚立がわずかに揺れた気がして、わたくしは下を見下ろしました。すると脚立のすぐそばに、ボールが一つ転がっていました。白と黒のそれはサッカーボールだったのでしょう。脚立を降りて拾い上げ、ついていた土を拭っていると、誰かが駆けてくるのに気がつきました。その方が小さな冠を髪に載せておられるのが見えて、わたくしはその場に膝を折り、深く頭を下げました。視界には爪先しか見えませんでしたけれども、何となく分かりました。アスタロス様でした。
「そのボール、僕のなんだ。返してもらえる?」
初めて間近でお聞きしたお声は、幼いからでしょうか、とても高いものでした。式典以外で王族の方と接するのは初めてで、わたくしの手はみっともなく震えてしまいました。それでもどうにかボールを差し出すと、アスタロス様の手がそれをお受取になられました。僅かながら見えた指先は、あかぎれ一つなく、お奇麗でした。
「君、使用人だよね。名前は?」
初めて王族の方にお声をかけて頂き、わたくしはもう大慌てでした。作法はいくつも習っていましたけれども、どきどきと心臓がうるさくて、お答えする声も震えておりました。舌を噛まないのが不思議なくらいのものでした。
「・・・・・・、と、申します・・・・・・っ」
か。年はいくつ?」
「こ、今年で十一になります」
「ふーん。ねぇ、顔上げてよ」
命令を拒むことは許されない。わたくしたちに使用人教育をして下さっている、使用人長の声がよみがえりました。恐る恐る顔を上げていくと、アスタロス様の膝が目に入りました。次いで、ボールをお持ちになられている手。黒いズボンに、白いシャツ。わたくしが地に座っていたからでしょう。いつもは長い前髪に隠れて拝見できない瞳を垣間見ることが出来ました。空のように澄んだ、奇麗な青い色でした。
アスタロス様は、じっとわたくしを見つめられました。元来見られることに慣れていない上、相手は王族の方です。視線を逸らすことは無礼に値すると分かっていましたが、その青い瞳を見つめ返すことは叶わず、わたくしはその僅か下の、まだ丸みの残っている顎を見つめていました。どのくらい時間が経ったのかは分かりません。ただ、わたくしには一時間にも二時間にも感じられました。
「僕たちサッカーやってるんだけど、も一緒にやろうよ」
軽いお声でおっしゃられた言葉は、とんでもない内容でした。アスタロス様のおっしゃられる「僕たち」とは、きっとベルフェゴール様のことでしょう。もしくは、同じ王族のどなたか。そんな方々に混ざって一介の使用人であるわたくしが遊べるはずもありません。蒼白になって首を振りました。アスタロス様は不思議そうに首を傾げられましたが、言葉で重ねてお断りするなど、わたくしに出来る筈もありませんでした。
「アウィー?」
アスタロス様をお探しに来られたベルフェゴール様が、まるで神様のように思えました。アスタロス様は振り向き、大きな声を発されました。
「ベル! 今行くよ!」
駆け出す前に、アスタロス様は一度わたくしを振り向きました。金色の御髪が揺れて、青い瞳が微笑んでおられました。
「じゃあね、
「い、いってらっしゃいませ、アスタロス様」
先輩の使用人たちを真似て言ってみると、アスタロス様はきょとんと目を瞬かれました。けれどベルフェゴール様に再度呼ばれて、そちらへと駆けて行かれました。建物の影から現れたベルフェゴール様の目も青いのかと、緊張から解かれた身体で、わたくしはそんなことを考えました。

それからというもの、アスタロス様は毎日のように、わたくしにお声をかけて下さいました。わたくしの仕事は相変わらず掃除が主でしたけれども、その場所は日ごとに変わります。けれどアスタロス様はどうしてかわたくしの居場所を突き止め、ある時は三階の廊下、またある時は広間の屋根裏など、どんなところにもおいでになられました。かけて下さるお言葉は、とても些細なことでした。アスタロス様がその日学ばれた科目のことですとか、昨夜ご覧になられたサッカーの試合のことですとか、時間にすれば毎回五分くらいのものだったでしょう。それでも余程大切なご用事がある日を除いて、ほぼ毎日、アスタロス様はわたくしの前にいらっしゃいました。
話の合間に口付けをされ、もしかして好意を寄せられているのではないかと勘違いも甚だしい考えを抱いてしまったのは、わたくしが十二の誕生日を迎える少し前のことでした。



アスタロス様のことをどう思っているのかと聞かれても、わたくしは何も申し上げることは出来ません。あの方はわたくしの想いが形になる前に、この世を去ってしまわれました。
ですが、ベルフェゴール様についてお尋ねになられるのなら、その問いには答えを返すことが出来ましょう。あの方はまだご存命でおられるのですから。



十二回目の誕生日を迎える前日、わたくしはアスタロス様に部屋に来るよう命じられました。王宮に仕えるようになって二年経ちはしますけれども、まだ王族の方のお部屋に入ったことはありません。命じられているとはいえお訪ねすることすら躊躇してしまい、悩むわたくしに気がつかれたのでしょう。アスタロス様は「じゃあ、明日の朝早くに来て」とおっしゃって下さいました。夜が開ける前の、まだ暗い時間。その頃なら誰にも見つからないだろうから。そうおっしゃられて「渡したい物があるんだ」と微笑まれたアスタロス様は、そっとわたくしの手を握られました。好かれているのではないかという分不相応な考えを、わたくしは必死にかき消しました。
めざましを三時にセットし、わたくしはいつもより早く就寝しました。同室のミーナが「明日、誕生日だね。おめでとう」と言ってくれました。コックさんにクッキーを分けてくれるよう頼んでおいたので、一緒に行こう。彼女の言葉に礼を告げて、ベッドにもぐりこみました。早く起きなければという気持ちが強かったのでしょう。眠りは浅く、わたくしは夜中に何度も目を覚ましては、枕元の時計で時刻を確認しました。
三時少し前に目が覚めたわたくしは、めざましを切り、眠っているミーナを起こさないように服を着替えました。黒のワンピースに白のエプロンとヘッドドレス。いつもと変わらない格好ですが、これ以外の洋服でアスタロス様の前に出ることは出来ません。音を立てないように気をつけて、わたくしは使用人の建物を抜け出しました。朝焼けにもまだ早い王宮は、とても静かで厳かでした。
アスタロス様のお部屋は、二階の一番奥にありました。衛兵に見つからないように、出来るだけ影の深いところを選んで進むと、大きな扉に辿り着きました。ノックはしなくていいと言われてはいたのですけれど、小さく扉を叩いてから、わたくしはするりと室内に滑り込みました。
「アスタロス様、です。お約束を果たしに参りました」
そう述べながらも、わたくしの鼻は異質な匂いを捉えていました。部屋の中は暗くて見えないのですけれども、何か鉄のような、生臭い、吐き気を引き起こすような異臭が充満していたのです。窓にかけられているカーテンが細く開いていて、段々と緋色に染まり始めた空が、室内に影を浮かび出します。小さな王冠を頭上に載せておられる、そのお姿は。
「ベルフェゴール様?」
「あぁ、やっぱり分かるんだ?」
お顔は拝見できませんでしたけれども、アスタロス様とそっくりのお声を返して下さいました。きらりと光ったのは歯だったのでしょうか。白み始めた東の空が、細く部屋に差し込んできます。毛の長い絨毯に、ベルフェゴール様は裸足で立っておられました。絨毯は深い色と薄い色がまだらになっており、こんな柄だったかな、とわたくしは首を傾げました。空が明けていきます。濃紺が次第に薄れ、空色よりも薄い青に変わり、白い一瞬の光と共に黄金の太陽が顔を出します。そして、朝と共に。

ベルフェゴール様のお足元に横たわる、アスタロス様も現れました。
先ほどわたくしが濃淡だと思った絨毯の柄は、染み込んだ赤黒い血液によるものでした。

「ゴキブリと間違えちゃったんだよね」
ベルフェゴール様の明るいお声が、わたくしの耳に届きました。アスタロス様はお耳から血を流しておられ、それはすでに固まっているようでした。
「逃げようとするからさぁ、何度もナイフをぶっ刺したんだけど」
ベルフェゴール様はお手に、ナイフを握っておられました。アスタロス様のお身体には無数の穴があり、そのどれからも血が流れておりました。王族の血。この国を担う、王子様の血。わたくしは一歩、アスタロス様に近づきました。
「そしたらさぁ、アウィーで。俺もう驚いちゃったよ。いつの間にか死んでんだもん」
膝を着き、手を伸ばすと、すでに血は乾いておりました。わたくしの指を赤く染めることもなく、触れたお身体はすでに冷たく、空のようだと思った瞳は水溜まりのように濁っており、金色の御髪でさえ色を失い、からからに乾いておりました。アスタロス様は、すでに絶命していらっしゃったのです。



朝焼け、闇色、光る刃、光る歯、笑み、微笑み、かけられた声、名を告げた日、脚立、ボール、屋根裏、逢瀬、誘い、断り、再会、接触、握る手、優しさ、熱、柔らかな、口付け。そう、初めての。



横たわるアスタロス様に、わたくしは微笑みかけました。すでに息はなく、お返事頂くことはないと分かっていましたけれども。それでも名を、呼びました。
「アスタロス様」
何故笑えるのか不思議でした。けれどわたくしの唇は、自然と弧を描いていたのです。呼び掛けた声はわたくし自身にも分かるほど、自愛に満ちたものでした。



太陽はすでに形を現し、夜は明けてしまいました。まもなくアスタロス様を起こしに、専属の使用人が来るでしょう。その前に片づけなければと思い、わたくしは顔を上げました。歯を剥いて笑っていらっしゃるベルフェゴール様の瞳は、澄んだ空のような青色でした。
「ベルフェゴール様、お金はお持ちですか?」
尋ねると、ベルフェゴール様はきょとんと目を瞬かれました。お可愛らしい。そう思うだけの余裕が、何故かわたくしにはありました。
「持ってないよ。だって俺、王子だもん」
「左様でございますか。でしたら、これを」
わたくしは、一際深い色をしている絨毯に転がっていた王冠を手に取りました。触れるのは初めてでしたが、想像通り繊細な作りをしていて、そして意外にも重量がありました。何時間か前までアスタロス様の頭上に載っていたそれを、わたくしはベルフェゴール様に差し出しました。
「国を脱出したら、出来るだけ早く質屋にお入れ下さいませ。薄暗く、人気のない店に。さすればいくばくかのお金が手に入りましょう」
「ふーん」
「どうか道中お気をつけて」
ベルフェゴール様は、左手で王冠をお受取になりました。指先についている血液がぱらぱらとこぼれ、アスタロス様の背に降りかかりました。帚を持ってこなくては、とわたくしは考えました。
「俺、これからイタリアに向かうつもりなんだけどさぁ。おまえも一緒に行く?」
「いいえ、有難きお言葉ですが」
いつか断りの言葉を言えなかったのが、まるで嘘のようでした。
「わたくしは使用人です。後片付けがございますので」
にこりと微笑みかけると、ベルフェゴール様も笑って下さいました。もう、顎を見ることはありません。御髪の間から垣間見える青い瞳を、じっと見つめ返しました。
クローゼットを開けて洋服と靴を用意し、ベルフェゴール様がお着替えなされている間に、目についた必要だと思われる物を鞄の中に詰め込みました。ベルフェゴール様はそれを肩から斜めに背負われると、勢い良くカーテンを開かれました。空はすでに青く、小鳥のさえずりが聞こえてきます。窓を開けてバルコニーに出られる背に、わたくしは頭を下げました。
「いってらっしゃいませ、ベルフェゴール様」
振り返られたお姿は、どうしてか驚いていらっしゃるようでした。思い返せば、わたくしがベルフェゴール様をお見送りするのは、これが初めてのことでした。アスタロス様には逢瀬の際、必ず言っておりました。そう見送ってほしいと、アスタロス様がおっしゃっていたからです。微笑まれたベルフェゴール様は、朝日を浴びて輝いておられました。
「・・・・・・俺、あんたにそう言ってもらいたくて、アウィーを殺したのかもね」
そんな呟きを残されて、ベルフェゴール様はバルコニーを飛び越え、王宮を後にされました。窓を閉めて部屋に向き直ると、ベッドサイドのテーブルに小さな包みが載っているのに気がつきました。近づいて手にとって見れば、そこにはアスタロス様の文字で「へ」と書いてありました。きっとこれをお渡し下さるために、アスタロス様はわたくしを呼び出されたのでしょう。嬉しさに口元がほころび、わたくしはアスタロス様のお傍へと膝をつきました。乾き始めたお身体に触れ、そっと穴だらけの背中を撫でて。
「ありがとうございます、アスタロス様」
お礼の言葉を、囁きました。

窓の外では青空が広がり、太陽がきらきらと輝いています。部屋の中にはわたくしと、動かなくなられたアスタロス様。起床を告げる使用人の声が、厚い扉をノックしました。
それはわたくしが十二回目の誕生日を迎えた、鮮やかな朝のことでした。





いってらっしゃいませ、アスタロス様、ベルフェゴール様。いつかお帰りになる日を心よりお待ちしております。
2007年1月13日(Twist Love様への参加作品でした)