知っています。この愛の意味を。
知っています。この情の先を。
知っています。この命の価値を。
知っています。この業の罰を。

知っています。この存在の不可侵を。
知っていますから、だからどうか。

どうかあの子達の生を、邪魔だけはしないで下さい。





Belphegor





年齢から一年遅れでインターナショナルスクールを卒業し、は大学への進学を決めた。学部は迷ったけれど、幸いにも屋敷で教わったイタリア語と英語、そして母国語の三ヶ国語を今は不自由なく使いこなすことが出来るため、文学部外国語学科にすることにした。今はフランス語とドイツ語を学んでおり、授業の片手間に日本人相手の観光ガイドのアルバイトなども引き受けている。一人暮らしの生活にも慣れ、友達もたくさん出来た。料理や掃除もうまくなったし、イタリアで生活し始めて三年以上経つけれど、大変だと思うようなことはもうほとんどなくなった。
今日もバイトで案内した日本人老夫婦に気に入られて共に食事を取り、ホテルまで見送ったその足でのんびりと帰宅する。出されている課題もないので、帰ったら風呂に入って寝よう。がそう考えていると、自分以外の足音がやけに近くに聞こえた。夜とはいえ、まだ九時を過ぎたばかり。通りを歩いている人は多いけれど、その音は明確な響きを持ってを目指しているのだと分かる。
こんな勘ばかりが鋭くなってしまった。悩むことなくショップのウィンドウを前にして足を止め、品物を眺める振りをする。そうしている間に足音は不自然に途切れ、聞こえなくなった。パン屋でパンドーロを二つ買う。再び歩き出して五分もすれば、3LDKのアパートへと辿り着いた。部屋は三階。頑丈に作られた階段を上り、一つしかないドアの前に立つ。鍵を取り出して鍵穴に差込み、くるりと回すといつも鳴るカチャリとした音はなかった。錠が開いている。けれどは何ら恐怖を抱くことなく扉を開いた。その瞬間、思い切り腕を掴まれる。ぶつかるように抱き寄せられた洋服のボーダーに、小さな赤が付着していた。
「よ、久しぶり」
「・・・・・・ベルフェゴール」
笑みを象った唇から並びのよい白い歯が覗く。ボンゴレ・ファミリーの独立暗殺部隊『ヴァリアー』の人間。
酷くご機嫌な彼の頭上で、繊細な冠がきらりと光った。



約三年ほど前、アルコバレーノという呪われた赤ん坊を産んだは、今は一般人として生活を送っていた。大学に通い、バイトをし、休日は友達と遊びに出かけ、時には恋愛の話で盛り上がったりもする、彼女はとても普通の少女だった。けれどアルコバレーノを産んだという事実は常についてまわり、時にの身を危険に晒した。それを防ぐのが、ボンゴレ九代目より命じられたヴァリアーの任務だった。
「今日はラバネロ・ファミリーのヒットマン、二人。あいつらも大概バカだよな。おまえに手ぇ出したら殺されるの決まってんのに、何でそれが分かんないんだか?」
軽く笑い、ベルフェゴールはリビングのソファーに乱暴に腰を下ろす。長い足をブーツのままローテーブルに乗せた彼に、はそっと肩を落とした。
とベルフェゴールの付き合いは短いわけではない。長いとも言い切れないが、マフィアに属する人物の中では、対面した回数の多さは五本の指に入るだろう。それはつまり、それだけが狙われてきたということでもある。
アルコバレーノの母親は、息子たちに名乗ることは出来ない。それでも彼女を手に入れようとする者は多い。妻としてならば、まだいい。悪いのは。
はくすりと笑い、紙袋の中から買ってきたパンドーロを取り出す。一つは明日の朝のために手をつけず、もう一つは皿に乗せ、コーヒーカップは二つ用意する。
「マーモンは元気?」
「元気なんじゃね? 今日はボスと出かけてるぜ」
「スクアーロたちは?」
「さぁ? そういや聞いたか? 跳ね馬が新しい愛人を作ったってさ」
にやりという擬音がふさわしく動いた唇に苦笑しながら、はテーブルの上に乗せられたままのベルフェゴールの足を軽く叩く。空いた台を拭いてから、運んできたパンドーロとコーヒーを彼の前に置いた。
「それを私に聞かせてどうしたいの?」
「・・・・・・つまんねー。もっと動揺すりゃ面白いのに」
「私とディーノはそういう関係じゃないし。相変わらず趣味が悪いね、ベル」
「青のアルコバレーノに『愛人』って名乗っただろ?」
「何時の話、それ。マフィアランドに連れて行ける女は家族か愛人だけでしょう? 方便だって何回言えば分かるの」
「さーね」
「ちょっと、ベル」
伸ばした手がマグカップを捕らえる。先ほど誰かを屠り、その命を奪った手。けれどその手が自分を守ってくれていることを知っている。パンドーロを一掴みにし、大きな口へと運んでいく。がぶりと齧り付いた彼の仕草に、はゆるく笑みを浮かべた。



アルコバレーノの母親は、息子たちにそうと名乗れない。
虹の御子は愛情を知らぬからこそ特異なのであって、知れば彼らは彼らでなくなる。
それ故にイタリアンマフィアはこぞってオルメタを布き、誰もが口を噤んできた。
アルコバレーノの中にも、本能的な抑制機能があるのだろう。知れば自分の何かが壊れる。そうと知っているからこそ、彼らは彼女を自身の中に留めておけない。
けれど、それを狙う輩もいる。

最強の名を持つアルコバレーノ。
彼らを壊すことが出来るのは、この世で唯一、という存在なのだ。



ヴァリアーという存在を、が恐ろしく思ったことはない。平然と目の前で人を殺されたこともあるが、どうしてかそんな感情は浮かばなかった。あの屋敷での生活で、やはり自分は何かを失ってしまったのかもしれない。けれどそれでいいと、は思う。あの子達を産むことが出来たのだから、それでいいと。
「つまんねー番組ばっか」
勝手知ったる様子でベルフェゴールはテレビのチャンネルをパチパチと変えていく。彼が気侭なのはいつものことなので、も自分のやることに戻った。イタリアでは風呂をシャワーで済ませる家も多いらしいが、はやはりバスタブに湯を張って寛ぐことが好きだ。今日も猫足の浴槽に湯を溜め、もらい物のバスオイルを数滴垂らす。
「ベル、私はお風呂に行くから」
「一緒に入ってやろうか?」
「バカ言わないで。帰るのはいいけど、ちゃんと鍵閉めていってね」
ベルフェゴールは好きなときに来て、好きなときに去っていく。基本的に護衛している最中だけだけれど、他のヴァリアーのメンバーよりも、彼はの前に姿を現すことが多い。
別に嫌いなわけではない。多少暴力的で痛烈な言葉を使うけれど、はベルフェゴールを嫌いに思うことはなかった。ルッスーリアもレヴィ・ア・タンも、ゴーラ・モスカもスクアーロも、そしてXANXUSもは嫌いじゃなかった。感情が麻痺しているのかもしれないけれど、彼らが自分を守ってくれているのは事実なのだ。それをどうして嫌いになれようか。
のんびり一時間は浸かってただろうに、風呂から出てくるとまだベルフェゴールがテレビを見ていた。先ほどと違うのは彼がごろりと横になっていることであり、長い足先がソファーからはみ出している。映っているのは録画らしいサッカーの試合。今度は一体どんな気まぐれなのだか、とは肩を竦めた。
「ベル、私もう寝るけど」
「勝手に寝れば?」
「うん。今日はありがとう。おやすみ」
挨拶を残して寝室の扉を開けるに、後ろから声がかかった。
「―――そういや跳ね馬」
「ディーノ?」
「そろそろ正妻決めろって言われてんだって?」
「・・・・・・私とディーノは、そんな関係じゃないよ」
小さく、小さく、は笑った。知り合ってもう三年になる。優しい人だと思う。今まで迷惑もたくさんかけてしまった。元々アルコバレーノの母親たる自分はマフィア全体の所有物であり、特定のファミリーと懇意にしてはいけない。ボンゴレは総括的立場にあるからいいとして、キャバッローネとは親しくしすぎた。ディーノの優しさに甘えてしまった。そろそろ離れるべきかもしれない。そう思いながらが振り返ると、ベルフェゴールは全然興味がないだろうサッカーの試合をまだ見ている。
「ベル、ありがとう」
「一緒に寝てやろーか?」
「それは今度ね」
笑い、リビングを後にした。



アルコバレーノの母親であるは、特定の誰かのものにはなれない。
彼女はマフィアの財産なのだ。今のアルコバレーノが死んだら、また次の世代を生ませるための、大切な大切な道具なのだ。
だからこそ彼女は、誰か一人のものにはなれない。

愛している子供に留めてもらえることもなく、愛し愛される人と結ばれることもない。
だけど、それを寂しいとは思わない。



例えすべてが報われずとも、彼らを愛した自分は確かにここに在るのだから。



翌朝、が眠い目を擦り寝室から出てくると、ベルフェゴールがまだテレビを見ていた。映っているのはサッカー以上に興味がないだろう通販番組で、はそれに唇をかみ締め、ゆるく笑う。いつもは朝になれば帰ってしまっている彼なのに。
「・・・・・・ありがとう、ベル」
僅かに震えてしまった声は、絶え間なく綴られるアナウンサーの宣伝に紛れて消えた。





優しい人に囲まれてるもの。だいじょうぶ、私は生きていける。
2006年6月14日