紡がれた、穏やかな歌を覚えている。
抱き上げてくれた腕の優しさを、ミルクの匂いのした肩口を。
すべてを覚えているのにどうしてか、顔だけに霞がかかって思い出せない。
あのときあいつは笑っていたのか、それとも泣いていただろうか、気になって仕方がないというのに。
今はもう、問うことさえ出来ない。

あのほのかに温かく泣きたいほどに寂しかった夜明けを、リボーンはまだ覚えている。





Giallo





「あのさ、リボーンって両親は?」
そう聞いてきたのは、リボーンが現在担当している教え子だ。名前は沢田綱吉。性根が甘く、何をやらせても普通以下、だけど底力だけはあるこの子供を次代のドン・ボンゴレに仕立てることが、リボーンの今負っている任務だ。
そのために日曜日である今日も英語の問題集をやらせていたというのに、すっかり集中力が切れたのか、綱吉は関係ない疑問をリボーンへと投げかけてくる。
「余計なこと気にしてんじゃねーぞ。もう問題は解けたのか?」
「もう四時間も勉強してんだぞ!? ちょっとくらい休憩させろって!」
「弱音吐いてんじゃねーぞ、ダメツナが」
言葉では詰るものの、とりあえず本日分のノルマはどうにか終了している。まぁいいだろうと判断し、リボーンは懐の愛銃に伸ばした手を下した。それを敏感に察知した綱吉は、ほっと大きく息を吐き出して机につっぷす。
三十分ほど前に綱吉の母である奈々から差し入れられたエスプレッソも、今はすでに冷めきってしまっている。けれど気にすることなくそれを口にしたリボーンに、綱吉は再度不思議そうに問いかけた。
「だって確か、シャマルがおまえのこと取り上げたって言っただろ? ってことはちゃんと両親がいるんだろうなって思って」
「アルコバレーノは試験管の中で産まれるとでも思ってたか」
「いやいやいやそんなことないけど! でもおまえの親なんだから、きっとすごい人なんだろうなーって思っただけで」
言葉や態度は引き気味でも、最近の綱吉は最終的に自分の主張は最後まで述べる。自信がついてきたのか知らないが、悪くない傾向だとリボーンは思う。
「俺の親は、先代のアルコバレーノだ」
へ、と呟き通りのおかしな顔に綱吉が変わる。
「アルコバレーノは精子を冷凍保存し、全員が死んだ後でそれを使って次代を作る。遺伝率は100パーセントらしいから、産まれてくる子供はまず間違いなく父親似だな」
「へぇ・・・・・・じゃあ母親は?」
「さぁな。アルコバレーノにとって母親は最初からないものとされている」
リボーンがそう告げると、綱吉の顔が歪んだ。彼のこういった面がリボーンは嫌いではないけれど、それを切り捨てる技術も身につけさせねばと思う。マフィアのドンは、優しいだけではやっていけない。
「・・・・・・でもシャマルは知ってるんだろ? リボーンの出産に立ち会ったんだから」
「知ってても喋らないだろうな。アルコバレーノの母親に関しては、マフィアすべてでオルメタ【沈黙の掟】が敷かれている。ボンゴレ九代目に限らずそこらのマフィアのドンだって知ってるだろうが、それをアルコバレーノに告げることは許されない」
「なん、で」
「アルコバレーノは母親の愛情を知らずに育つからこそ優秀なんだってのが研究者共の持論だ」
何でもないことのように告げるリボーンは、まるで他人事のように自分自身について語る。家にいることの少ない父親はともかく、母親に愛情を注がれて育てられた自分を、綱吉は自覚している。そんな自分を、リボーンは一体どんな気持ちで見ていたのだろうか。たとえアルコバレーノといえど、彼らはまだほんの子供だというのに。
「つーわけで俺たちは研究所にいるときはずっと、世話係に面倒を見られてたわけだ。まぁ、どいつも一日と持たずに辞めてったけどな」
にやりと、珍しく表情に出してリボーンが笑った。その意味を察知しないほど綱吉とて鈍い人間なわけではない。だからこそ彼に乗じて明るく振る舞う。
「どうせおまえらが酷いことして辞めさせたんだろ」
「コロネロが寝ぼけてランチャーぶっぱなして、ウェルデが薬品の調合に失敗して、そのせいでスカルのタコが巨大化したくらいだ。赤ん坊の可愛い悪戯だな」
「・・・・・・俺、おまえらの面倒だけは絶対に見たくない」
深く溜息を吐き出す綱吉は、思わずランボはまだマシな方なのかもしれないと思ってしまった。リボーンだけでも精一杯なのに、同じレベルの赤ん坊が七人もいたら威力は七倍ではなく七乗だろう。遠い目をしている綱吉の耳に、ぽつりとした呟きが届く。
「・・・・・・ひとり、気に入りのメイドがいたが、そいつも朝になれば消えていた」
顔を上げれば、リボーンはどこかうつむきがちに視線を伏せている。黒い帽子が幼い目元にかかり、人形のように彼を見せた。
「日本人の女だった。今のおまえとたいして変わらない年で、夜に散歩している最中に出会った」
わずかに綱吉は眉をしかめる。けれど常にはないリボーンの静かな様子に、言葉は紡がず見守った。
「子守歌も日本のものだった。めずらしく俺たち全員の意見が一致したのに、翌朝探してみりゃ、そいつは研究所から消えていた。オヤジ―――ボンゴレ九代目に言わせれば、田舎に帰ったらしいけどな」
到底信じていないのだろう。くすりとリボーンが笑う。その様子は幼子のものではなく、けれど呪われた赤子と呼ばれるアルコバレーノにもどこか相応しくない笑みだった。
「器量のよさそうな女だったから、良くてどっかのドンの愛人、悪けりゃすでに死んでるだろ」
「―――生きてるよ。絶対に生きてる」
はっきりと言い切る綱吉に、リボーンは目を瞬いた後でにやりと唇を吊り上げる。今度はいつもの彼の笑みで、綱吉は心中で安堵しながら重ねるように続けた。
「リボーンはきっと、その人にまた会えるよ」
「ふん、どうだかな」
「会えるよ、きっと」
譲らない綱吉に、リボーンはわざとらしく肩を落とす。その仕草に隠されたわずかな照れに、綱吉はまだ気づかなかったけれど。
「まぁ、未来のドン・ボンゴレの超直感だからな。信じてやってもいいぜ」
「だから俺はマフィアになんかならないっつーの!」
「うるせぇ。次は数学だ。さっさと始めろ」
「リボーンの鬼ーっ!」
銃を突き付ける代わりに丸めた教科書で、リボーンは綱吉の頭を叩いた。悲鳴を上げつつものろのろとノートを開く様子をじっと眺める。問題集の第一問を解き始める前に、綱吉が顔を上げて少しだけ笑った。
「リボーンはきっとお母さんにも会えるよ。マフィアにはならないけど、これも俺の勘な」
「・・・・・・ふん。さっさと解け、ダメツナが」
言葉は冷ややかなものだったけれど、答えたリボーンも笑顔だった。流れる空気は優しい。



初めて願った夜、喪失を知った朝焼け。
顔は思い出せないけれど、優しい腕と温かな熱、穏やかな歌を覚えている。
望めるのならば、もう一度会いたい。
あのメイドがいてくれるなら、本物の母親などいらない。自分たちのような呪われた子供を産む女など、どうせ狂っているに違いないのだから。
母親になんて会いたくない。だけど、あのメイドにはまた会いたい。生きて元気でいるといい。
そう思い、リボーンは今日もまぶたを下ろす。

眠りの淵で思い出すのは、いつもあの夜に聞いた子守歌だった。





今はどうしているのか、それだけが気になる。
2006年6月13日