日曜日。午前中の厳しい練習を終え、昼食の時間が告げられた。体力の回復を見込むためにも、立海では昼休みをきっかり一時間取ることにしている。早々に弁当を食べ終えて昼寝をする二年もいれば、物足りなくてコンビニに走る一年もいる。ああ疲れた、と誰もが鞄から弁当を取り出し、校舎の影やら木陰のベンチやら好きな場所に向かう中、レギュラーは部室で食べるのが習慣となっているため、父親手製の中華丼弁当を机に広げようとしてジャッカルは首を傾げた。いつもなら誰よりも早く「腹減った!」と弁当やらコンビニの山ほどのパンやらを食べ始める丸井が、今日はまだ昼食を手にしていないのだ。
「ブン太、おまえ弁当は?」
不思議に思って問いかければ、ぶすっと唇を尖らせて丸井が答える。
「今日は用意してねぇんだよ」
「食欲の権化が珍しいのう」
「買いに行かれるのなら付き合いましょうか?」
「ちげーって。用意するって言ったんだよ、ジロ君が!」
うちの昼休みは十二時からだって言ったのにもう過ぎてっし! 腹減った腹減った腹減った! まるで子供のようにじたばたと両手足を暴れさせる様に、落ち着けよ、とジャッカルが宥めにかかる。仁王と柳生が顔を見合わせ、ふむ、と同じく部室にいた柳が何やら予測を始めようとしたときだった。ばったーん、と物凄い音を立てて部室の扉が開かれた。反射的に「静かにせんか!」と怒鳴ろうとした真田の切っ先を問答無用に制したのは、つい数秒前に話題に上った「ジロ君」である。それすなわち、氷帝学園の芥川慈郎だ。
「丸井君、お待たせー!」
「ジロ君、おせーし!」
突如として現れた他校生は、ラケットバッグの代わりに大きなクーラーボックスを下げていた。





あなたの人生いただきます。





時は八月。関東大会が終了し、決戦である全国大会まで約半月。関東では青学に敗れ第二位に甘んじた立海だが、部長の幸村が復帰した部活に悲壮感はない。むしろ全国こそが本番なのだと張り詰める空気の中、厳かに練習は行われている。しかし休憩時間まで厳しく在れるほど彼らとて成熟していない。その素顔はどこにでもいる中学生であり、弁当のおかずに一喜一憂し、デザートの存在に顔を綻ばせる幼さも有しているのだ。
しかし現在、丸井の隣に座り、ほくほく顔でクーラーボックスを開いているジローは違う。彼の在籍する氷帝学園は関東大会の初戦で敗退し、全国大会への切符を逃した。実は三日後には開催地枠出場という素晴らしいニュースが告げられるのだが、とりあえず現時点でジローの夏はすでに終わってしまっている。だからこそこうして、他校の部活に突撃・神奈川のお昼ごはんが出来ているのだ。
「俺、丸井君にちょー頑張ってほしいしー! だから差し入れ持ってきた!」
「サンキュー、ジロ君!」
「食べて食べて、マジ美味いから!」
上座に部長の幸村、その左から柳、赤也、柳生、仁王、丸井、ジロー、ジャッカル、真田、そして幸村に戻る。常よりひとり多い車座だが、当のジローが何ら臆することなく座っているため、返って他の面子の方が戸惑っていた。立海レギュラーは弁当派が多く、今日は仁王だけがコンビニのサラダとヨーグルトで、隣の柳生から小ぶりのおにぎりをひとつ押し付けられている。
「じゃーん!」
ジローがクーラーボックスから取り出したのは弁当、ではなく紺色の巾着袋だった。さりげなく和柄が用いられており、男が持っていても何ら不自然ではない、むしろシックな弁当男子を印象付ける良アイテムだ。素敵だね、と好みだったのか幸村が褒めるものの、ジローにとっては中身こそが大切なのか、遠慮なくぽいっと巾着袋を剥ぎ取った。中から出てきたのはこれまた巾着と同じ柄の風呂敷で、ジローはそれもばりばりと剥いでいく。そうして登場したのは木製のシンプルな小判型弁当箱だった。味わい深い漆の色が心にゆとりを与えてくれる。ほう、と感心した声を挙げたのは一人用の重箱を愛用している真田だ。
「丸井君、はい、お手拭!」
「箸も弁当箱とセットのすり漆とは本格的だな」
クーラーボックスから出てきたのはこれまたちゃんとしたお手拭ケースで、爽やかなライトグリーンのタオルを丸井に手渡すジローはまさに新妻のようだ。少なくとも柳と赤也と仁王はそのようなことを思ったが、前もって柳が赤也の口を手のひらで塞いだため言葉にされることはない。丸井が箸を持ちわくわくと構える横で、ジローは真空ステンレスボトルの水筒を取り出し、蓋を外して何やらを注いでいる。熱々の湯気と香ばしい味噌の香りが一気に広がり、すでに食べ始めているというのにジャッカルは何故だか空腹を覚えてしまった。とぽんとぽんと落ちる白い立方体は豆腐だろうか。にょろりと落ちた海藻に、ちらりと赤也の頭を見やったのは誰だったか。小口切りにされたネギは別のタッパーから取り出して載せるという拘りようだ。そうしてついに、弁当箱の蓋に手をかける。余談だがこの時点ですでに昼休みの四分の一は経過していた。
「丸井君丸井君、準備オッケー?」
「オッケーに決まってんだろぃ! 待ってましたぁ!」
「じゃじゃじゃじゃーん! オープーン!」
このテンションの高さはどうにかならんかの。まぁまぁいいじゃありませんか。おにぎりをもごもごと齧る仁王に、柳生が笑う。ジローによって木製の蓋が外され、弁当の中身が露わになった。まずは一段目。繰り広げられる食の世界。
並べられているのは四つのおにぎりだった。シンプルに黒胡麻がふってあるもの。カリカリ梅とじゃこの混ぜおにぎりに、紫蘇の葉が巻いてあるもの。そして一番右のは焼きおにぎりだろうか。僅かな焦げ目がやはり美味しそうで、どれもがきちんと俵型に握られている。手のひらで優しく握った、柔らかなフォルムの俵だ。何となく自分の弁当を見下ろしたのは赤也である。もちろん母親が朝早く起きて作ってくれた弁当に文句を言うわけではないが、白いご飯にちょこんと載った梅干しがやけに眩しい。所謂シンプル、日の丸弁当というやつである。もちろんおかずは別についているが。
「ひゃっほう! 美味そうじゃん!」
「でしょでしょ! 二段目も見てほしいしー!」
ぱかっとジローが上の段の蓋を開ける。きらりーんと輝いて見えたのは色彩の所為だろうと柳は分析した。一般的に弁当というのは茶系になりやすい。それは醤油などを多用する日本食の特徴上仕方のないことだが、それでも茶系にならないよう苦心しているのが世間のお母さん方、あるいは弁当男子たちなのである。しかしジローの出した弁当は違った。とても彩に溢れているのだ。
まず目に入ったのはお弁当の定番、卵焼き。ぱぁんと勢いよく手を合わせ、いただきます、とテニスの試合と同じくらいに真剣な表情で感謝を述べ、丸井が箸を握る。その先は黄金に輝く卵焼きへと向かっていった。隙間などなく綺麗に巻かれたそれは、けれども決して機械で作った画一的なものではなく、焦げ目がないのにつやつやしており、出汁の多さが窺える。大きく開かれた丸井の口に卵焼きが消えていく様を、ジローはわくわくと瞳を輝かせて見つめていた。もにゅ。丸井が咀嚼を始める。もにゅ。もにゅ。もにゅ。もにゅ。・・・ごっくん。
「っ・・・にこれ、うっま!」
「でっしょー!?」
ただでさえ大きい目をこれでもかという程に見開いて、丸井が信じられないといった面持ちで卵焼きを見つめる。拳を上下に振り動かして称賛を受け取るジローは本当に嬉しそうだ。じわりじわりとふたりの頬が赤く染まっていく。丸井は弁当に対する期待値の急上昇に。ジローは喜んでもらえたという実感に。
「次! 次これ食べて! 鶏肉の利休焼き!」
「魚ではなく鶏肉なのか。ふむ、美味しそうだな」
「酢橘が絞ってあるから爽やかで美味いし! やっぱ部活中は肉っしょ!」
「ジロ君分かってる!」
ジローが指さしたのは、白胡麻と黒胡麻でコーティングされた一口大の塊だ。きらきらと光っているのは語られた通り酢橘なのだろう。さっぱりとした香りが鼻をくすぐり、ごくりと丸井の喉が鳴る。王道の卵焼きがあれだけ美味かったのだ、他のおかずも美味しいに違いない。期待に箸を持つ手が軽くなり、いそいそと丸井は利休焼きを摘まみ上げた。一口大に削ぎ切りされた鶏肉はささみだろうか。じゅるり。丸井は唾を呑み込む。見た目からして食欲をそそるそれは、口の中に入れても予想を裏切らない、なおその上を行く美味しさだった。胡麻はさくさくしているのに、中の鶏肉はジューシーさを失っていない。つけられている下味は醤油と酒か? つなぎとして片栗粉を使っているのだろうか。とにかく美味しくて、丸井の箸を持つ手が小刻みに震える。もはや言葉も出ない。
「・・・美味そうっすね、丸井先輩」
「やらねぇ! 絶対にやらねぇからな! 死んでもやらねぇぞ!」
「いいじゃないすか、ひとつくらい! そんだけおかずがあるんだから!」
「駄目だ! この弁当は全部俺が食う! 俺のもんだ誰にも譲らねぇ!」
「行儀が悪い! 箸で争うな馬鹿者!」
対面の赤也から鋭く飛んできた箸を、丸井が弁当箱を両手に持ち、箸を口にくわえて回避する。丸井の食に対する執念はテニス部で、否、立海の中でも広く知られているが、それにしたって目が本気だ。いつもの練習もこれだけ真剣だったらな、と遠い目をしてしまったのはダブルスで振り回されてばかりいるジャッカルである。箸の攻防を真田に叱られ、赤也が渋々と獲物を諦める。「幸せです!」と表情で語りながら、丸井は弁当を平らげることに専念し始めた。ジローは机に肘をついて、丸井が次から次へとかっ込んでいく様をにこにこ笑いながら見やっている。
「芥川君の分のお弁当はないんですか?」
首を傾げる柳生の弁当箱から、肉が食べたくなったのか仁王がメンチカツをひとつ攫っていった。
「俺はいっぱいつまみ食いしたからいいんだー」
「ジロ君、これマジで美味いって! ありがとな!」
「丸井君が喜んでくれたら俺も嬉しいしー!」
頬をリスのように膨らませている丸井にジローも嬉しそうだ。おかずは卵焼きや利休焼きの他にも、箸休めのように野菜の酢の物や高野豆腐の炊き合わせなどがある。長いもとトマトの炒め物には、柳も美味しそうだな、と少しばかり手を伸ばしたくなった。トマトにこんがりとついた焼き目が見ているだけで美味しそうで、長いものしゃくしゃくとした食感を想像すれば喉が鳴る。おにぎりの横に添えられている沢庵も添加物に浸った真っ黄色ではなく、白みの強い素朴な色合いだ。美味しそう。誰もがそう思った。それは真田でさえ例外ではなく、食べている丸井がとても幸せそうだからというのも理由にあっただろうが、それを差し引いてもジローの持ってきた弁当は視覚に強烈に訴える。食べたい。そう思うが、丸井を相手に食で挑むほど無謀なことはない。羨みながらも誰もが口には出さなかったが、ぽつんと唯一音にした者がいた。
「いいな。美味しそうだね」
「ゆ、幸村君・・・」
我らが部長である。上座の幸村を無視することは流石に出来ず、つくねの餡かけを口に運ぼうとしていた丸井が、びくりと肩を揺らして動きを止める。その反動で箸の上のつくねが落ちかけたが、そこは食に対する丸井の執念、ばっと身を屈め空中で見事キャッチした。もちろん口でである。もごもごと噛み砕いている間も、丸井は幸村の視線と笑顔に晒されていた。ちらり、机の上の幸村の弁当を見やる。小さい。フルーツがついてなお、丸井の持つ弁当箱の半分くらいのサイズしかない。
手術が成功し、リハビリを成し遂げ、部活に復帰した今もまだ、幸村は万全の状態とは言い難い。ブランクを埋めるため、かつての感覚を取り戻すために部員達とは異なった基礎練習ばかりを繰り返してこなしている。髪を乱し、汗を流し、己を痛めつけるように練習に打ち込んでいる幸村は、それなのにやはりまだ身体が本調子ではないのだろう。長袖のジャージに隠れているけれども、手首は折れそうなくらいに細い。そして彼の広げている弁当は、女子よりも小さいかもしれないサイズだ。まだそんなに食べられなくて、と聞いたのは先週の話か。そんな幸村が「美味しそうだ」と言ったのだ。食べたいと、思ったのかもしれない。それならば食べてもらいたい。是非とも少しでも多く食べて、もっと元気になってほしい。これがいつもの母親の作る弁当だったなら、丸井も悩まずに「やるよ、幸村君」と差し出すことが出来ただろう。しかし今日ばかりは違う。ジローの用意した特製弁当なのだ。ぶっちゃけた話、丸井が今までの人生の中で一番美味いと感じている弁当だ。ジローのことだから頼めばまた用意してくれるかもしれないが、そうそう無理も言えない。故に、貴重な弁当だった。だけど幸村君が。いやいやこの弁当は。でも幸村君が。丸井の葛藤は三分続き、そして。
「・・・どうぞ・・・っ」
「え? いいのかい?」
「ゆ、ゆき、幸村君が元気になってくれるなら、俺だってこのくらい・・・!」
そのときの丸井は血の涙を流していたと後にジャッカルは語った。引っ込みそうになる腕を必死に抑えているのだろう。ぷるぷる震えながら差し出された弁当箱と丸井を見比べ、ありがとう、と幸村は鶏肉の利休焼きをひとつ箸でつまんだ。余談だが最後の一個である。それを自身の口元へと運び、胡麻の衣が半分、幸村の口内へと消えていった。次の瞬間、立海男子テニス部の部室に天使の羽が舞った。それは思わず赤也が「俺まだエンジェル化してなくね!?」と少しばかり先の未来を垣間見てしまうほどの幻想的な光景だった。誰もが目を疑って瞬きをしている合間に、白い羽は消えていく。
「美味しい。すごく美味しい。ありがとう、丸井」
どうやら羽の持ち主は幸村だったらしい。感動が幻想となって表現されたのだろう。目を瞠って咀嚼していたが、飲み込んで浮かべられた笑顔は本当に喜んでいるらしく花のように美しい表情だった。べ、別にこれくらい、幸村君のためなら。泣きそうな顔でそう答え、丸井は残りのおかずをもそもそと食べ始める。次の瞬間にはやはりその美味しさにぱあっと笑顔になっていたが。
「ごちそうさまでした!」
「おそまつさまでした!」
そうして弁当を平らげ、味噌汁も一リットルの水筒分をすべて飲み切り、丸井が満足するまで約二十分。ぱんっとこれまた真剣な顔で心からの感謝を告げた丸井に、ジローも満面の笑顔でぺこりと頭を下げて答える。空になった弁当箱を回収して風呂敷に包み、それを巾着袋へと入れ、クーラーボックスへと戻していく。昼休みはまだ二十分程度残されており、誰もが昼食を終え、のんびりと胃の消化に勤しんでいた。それにしても、と柳がデータノートを開いて声をかける。
「意外だったな。芥川が料理が得意だったとは」
「えー?」
「あ、それ俺も思った! ジロ君、また作ってきてくれよな!」
「あはは、それは無理だしー!」
身を乗り出して強請る丸井に、ジローはからからと笑って言った。非常に今更のことを。
「弁当作ったの、俺じゃないしー! 俺、料理なんかできねーもん。だから俺が世界で一番料理が上手いと思うやつに頼んだんだ。せっかく丸井君に食べてもらうんだから、絶対に美味いもん食べてもらいたかったしー!」
一瞬、テニス部内の空気が固まった。当然のごとくジローが自分で弁当を用意すると言い出し、実際にこうして持ってきたものだから、ジローが手作りしてきたのだと誰もが信じて疑わなかったのだ。それ何て新妻じゃ、と言っていた仁王でさえ、今のジローの言い分には思わず目を瞬くしかなかった。頼んだ? 自分じゃない? ということはつまり、さっきの素晴らしい弁当は、ここにいない第三者の手によるものだというのか? だとすると自分にも食べられるチャンスがあるのではなかろうか。そんな考えに至ったのは、勿論のこと柳が一番早かった。
「どこの店だ?」
「んー・・・店と言えば店だけど、ちょっと微妙に違うかも」
「違うとは?」
「んー」
首を傾げ、心なしかジローの目がとろんと夢見がちになる。興味の薄い会話をし始めるとすぐさま眠気に襲われる性質なのだろう。日頃の部活でも寝ていることが大半だというし、厳格な真田のいる立海では信じられないことだが、とにかく今寝られては困る。ジロ君ジロ君、と丸井が隣から呼べば、瞼を擦ってジローは欠伸した。
「俺んちの商店街にお惣菜屋さんがあるんだけどー・・・そこの子供が俺と岳人と幼馴染で仲いいから、そいつに作ってもらったんだ・・・」
「商店街?」
「確か芥川の家はクリーニング店だったな。向日の家は電気屋だったか」
「うん、そー。俺、あいつんちの惣菜好き。でもあいつの作るご飯はもっと好き」
へらっとジローが笑うと、ふむ、と柳が何かをノートに書き込む。少なくとも柳家の近日中の夕飯メニューがひとつ決まった瞬間だった。
「幼馴染ってことは、俺たちと同じ年か?」
「うん、中三。あいつの作るご飯、マジマジすっげー美味いの!」
「男? 女?」
「女!」
「マジ? 俺、こんな弁当作る女だったら付き合ってもいいかも」
クーラーボックスへと戻された弁当箱を名残惜しげに見やりながら、丸井の漏らした言葉は八割方が本気だった。それだけ今の弁当は丸井の好みだったのだ。好き嫌いのない丸井だが、それ以上にすべての食材が、料理が美味しく感じられた。素朴で優しい味なのに、どこか深みがあって毎日食べたくなる。じゅるり。利休焼きの酢橘の爽やかさを思い返すだけで涎が出てくる。今度ジロ君の家に行こう。っつーか商店街に日参してやる。県境をまたごうと決意した丸井の隣で、ジローはまたしてもごそごそとクーラーボックスを漁り、今度は真っ白な箱を取り出して掲げた。
「じゃーん! デザートのケーキ! ちなみにこれもそいつの手作り!」
「ジロ君、最高すぎるだろぃ・・・!」
感極まって抱きついた丸井は、やはり根っからの甘党だった。デザートは別腹、というのを地で行くかのように、今度は渡されたフォークを握って嬉々として行儀よく椅子に座り直す。いいなぁ丸井先輩、と机の上にだれながら赤也が言った。そうしてジローの手によって箱が開けられ、魅惑のスイーツが姿を現す。
「ほう・・・」
「綺麗ですね」
「美味そうじゃのう」
柳が感心し、柳生が感嘆し、仁王が珍しく意欲を見せる。赤也はすでに目が食べたい食べたいと語っており、幸村は微笑み、真田はやはり感心し、ジャッカルも驚きながら現れたケーキを見つめた。すうっと丸井の瞳が細められる。それは昨年度の立海の文化祭こと「海原祭」で、料理大会お菓子部門の優勝を飾ったパティシエの目だった。注意深く検分するように丸井はケーキをじっと見つめる。美味そう美味そう美味そう美味そう。そんな煩悩を必死に抑え込みながら、とりあえず先に分析を始めた。
四号のケーキより一回り小さいだろうか。直径が十センチメートルあるかないかのそれは、明らかに一人のために作られた特注サイズだ。見て推し量る限り、一番上の白いクリームは感じからいって生クリームではなくホワイトチョコレートムース。側面はあえてクリームを塗るのではなく、綺麗な断面を披露している。スポンジもただのそれではない。間に挟まれているピンク色のクリームはベリー系か。更にその下にはチョコレートクリーム、その下はガナッシュかあるいはキャラメルのバタークリーム。何層にもなっている生地の繊細さに、丸井の心がじわじわと焦りを抱き始める。同じくケーキ作りをする身として、この目の前の品がどれだけ手の込んだ菓子か理解することが出来たのだ。丸井の予想が正しければ、これは一介の料理好きな女の子が作れるレベルを超えている。店で売られていたとしても何ら問題はないだろう。上に載っている緑色のクリームは最近話題のピスタチオか。生のベリーとホワイトチョコレートのプレートが飾られている。For you. あなたのために。まさにその一言が相応しい、誰かに贈るためのケーキだ。
「い、いただきます・・・!」
挑戦者の気概で丸井はケーキに挑んだ。フォークの切っ先がゆっくりとホワイトチョコレートムースに触れる。ふんわりとした弾力のスポンジは見れば見るほどきめが細かい。ごくり。丸井の喉が緊張で鳴った。固すぎず柔らかすぎず、フォークは一番下まで貫通する。そうして手前に引けば、一口分のケーキがフォークの上へと載った。ゆっくり、ゆっくりと口元へ近づけるにつれて鼻をくすぐり始めるベリーの甘酸っぱい匂い。スポンジが、ガナッシュが、ホワイトチョコレートムースが丸井の舌に触れる。そうして溶け始めると同時に広がる、この何とも言えない口当たりの良い極上の甘さ。
「っ・・・!」
「ブ、ブン太!?」
「ちょ、丸井先輩!?」
デザートタイムを見守っていたレギュラーたちがぎょっとし、赤也とジャッカルは思わず椅子を鳴らして立ち上がってしまった。それもそのはず、丸井の大きな瞳から、ぼろっと大粒の涙が零れたのである。フォークを銜えたまま、ぼろぼろと涙は止まることなく溢れ続けている。もきゅ。もきゅ。もきゅ。もきゅ。・・・ごっくん。ふえええええええ、と丸井は本格的に泣き出した。
「お、俺、俺っ、このケーキと弁当作ったやつと結婚する・・・っ! こいつのためなら死ぬまで働き続けてもいい・・・!」
うわああああああああん。泣き喚いてそんなことを言いながらも、食べる手だけは休めずに丸井はひたすらにケーキをもこもことフォークに載せては口に運ぶを繰り返している。マジうめぇ。何でこんなケーキ作れんの。天才だろぃ。俺、こいつの前では凡人でもいい。っつーか出会えた奇跡に感謝する。マジうめぇ。本気でうめぇ。最高すぎる。もう死んでもいい。死ぬならこのケーキに埋もれて死にたい。泣き続け、食べ続ける丸井の横で、相変わらずにこにこと笑っているジローだけがもはや異次元になっていた。からん。スポンジのひとかけらも残すことなく、舐める勢いでケーキを完食した丸井がフォークを置いて立ち上がった。そうしてジローを見下ろし、次の瞬間には床に膝をついて頭を下げた。所謂土下座である。消化に悪いしー、と言ったジローだけが本気で別次元だ。
「頼むジロ君! 俺にこのケーキと弁当作ったやつを紹介してくれ! 一生かけて幸せにすっから!」
「うーん、やだ!」
爽やかにジローが一刀両断しつつ、気が付けば昼休み終了まで残すところあと五分。楽しい昼休みだったな、と幸村が珍しく声を挙げて笑った。





ちょ、ジロ君頼む! 本気で! 俺、こいつの飯を朝昼晩一生食い続けたい!
2011年10月16日