「・・・・・・あなたは、だぁれ?」
それは深い夜の空に響き、キッドの耳を震わせた。
見上げてくる瞳は闇よりも静かで、少女の表情を引き立てる。
浮かんでいるのは、口にした通りの素朴な疑問。
だからこそシルクハットを取って胸に当て、深々と頭を下げた。

「月を捜し求めて徘徊する哀れな怪盗です。可愛らしいお嬢さん」

たった一人の観客に、マジシャンとしての笑みを浮かべて。





ノヂシャを盗んだのはだぁれ?





今日のキッドの仕事は、米花百貨店の特設会場で展示されている“ホワイト・ティアー”という真珠の奪取だった。
現場にいたのは顔見知りの刑事だけで有能な探偵諸君は一人もいなく、楽だと思うと同時に物足りなさも感じ、さっさと宝石だけ頂いてトンズラした。
けれどさすがは日本の警察も然るもので。
食いついて離れないパトカーと、白いハングライダーの追いかけっこが続くこと一時間弱。
どこまで来たのか正確には判らないが、おそらく高級住宅地であろう場所で深夜にサイレンを鳴らすのも申し訳ない。
そう考え、キッドはハングライダーの帆をたたみ、どこかに隠れて警察をやり過ごすことにした。
住人にも見つからなさそうな、眼下に広がる屋敷たちの中でも一番大きな邸宅を選び、マントを翻してベランダに着地する。
――――――そして怪盗は、少女と出会った。



前面ガラス張りのドアを閉め、キッドは少女に案内されるままに室内に足を踏み入れた。
その際に少しだけ扉を開けておいたのは、やはり彼の怪盗としての性か、それとも紳士としての礼儀か。
絨毯の敷き詰められている部屋に土足で上がることにも躊躇いを覚えたが、脱ぐのも間が抜けている気がしたので、そのまま失礼する。
上空から見ても馬鹿広いと思った屋敷だったが、やはりこの部屋もそれに比例した大きさだった。
思わず一介の高校生である自分の部屋と比べて、快斗は内心で溜息をつく。
寝るところだったのか、電気はついていなく窓から入る月明かりだけが室内を照らしている。
怪盗なんてものをやっているからにはモノクルがあっても夜目には強い。
ざっと周囲を見回して少女以外に人がいないこと、そして然したる危険物もないことを確認して口を開く。
「お休みのところをお邪魔してしまい、申し訳ありません」
振り返る少女は快斗の胸くらいの背しかなく、白いレースのネグリジェから覗く手足は驚くほど細い。
碧に近い黒髪は異様なほどに長く、華奢な踝までも覆い隠している。
「休んでなかったから、だいじょーぶ」
喋る言葉はどこか舌足らずだ。
表情は年端の行かない幼女のように純粋で、ひょっとしたら見た目よりも幼いのかもしれないとキッドは思う。
けれど例え相手が幾つでも女性に年を尋ねるなどということは、紳士を自負している身として当然ながらしない。
「怪盗さん、座って?」
「・・・・・・それでは、失礼いたしまして」
確かに警察を巻くために少しの間隠れようと思ったが、まさかこうなるとは。
キッドはそう考えながらも、薦められるままに部屋の中央にある椅子に腰を下ろす。
「紅茶と緑茶とコーヒー、どれがいい? それともお酒?」
首をかしげて少女が聞いてくる。
喋るたびに長すぎる髪が揺れ、暗い室内の中で光沢を放つ。
すべての女性は各々美しさを有しているとキッドは思っているが、その中でもこの少女は特別かもしれない。
顔立ちは愛らしい。髪と目、睫はすべて黒。唇は紅。肌は白。そのコントラストが完璧。
――――――だが、どこか怪しい。
快斗は表面には出さずに、けれど微かに緊張しながら紅茶のカップを受け取った。



「怪盗さんは、どうしてここに来たの?」
出されたクッキーに毒でも入っていたらどうしようか。
キッドはそんなことを考えたが、紅茶に口をつけている時点で時すでに遅い。
けれど体のどこかに異変を感じることもなかったので、薦められたクッキーを一枚手に取る。
「いくら手を伸ばしても届かない月に焦がれてしまいまして。レディの寝室へお邪魔する気はなかったのですが・・・・・・」
「月は? そういうときはね、嘘でも『あなたに会うために来ました』って言うんだよ?」
「・・・・・・それは、気が利かず申し訳ありません」
「いーよ。お茶つきあってくれてるから、許してあげる」
容姿と表情、台詞回しのすべてがバランスを取れていない。
一体どれが本当の少女なのだろうか、とキッドはポーカーフェイスの下で推測を飛ばす。
室内の中央にあるのは、少女一人が寝るにしては大きすぎるベッド。キングサイズすら越えているそれは、ひどく寝心地が良さそうだ。
そして今キッドと少女が座っている椅子。紅茶とクッキーの乗っているテーブル。それらはどれも高価そうな質感を覚えさせる。
部屋の中にあるのは、それだけだった。他にはクローゼットも化粧台もない。
あとは壁一面をすべてガラスで埋め尽くされた窓から月光が入ってきているだけで。
寝室とは言い難い、けれどそれ以外に表現する言葉もないような部屋を訝しみ、キッドは自ら口を開く。
「・・・・・・お嬢さんは、こんな夜更けに何をしていらしたのですか?」
さっき『休んでいなかったから大丈夫』だと少女は言った。ならば一体何をしていたのだろうか。
こんな、何もない部屋の中で。
「いくらあなたのように美しい人でも、睡眠不足はお肌の敵ですよ」
「体内時計を狂わして一日が25時間になっちゃうんだよね? 思考能力も落ちちゃうし、体調も崩しちゃう。人間ってすこしも眠らないでいると、3週間もしないで死んじゃうんだって」
「・・・・・・・・・ええ、そのようですね」
本当にこの少女は何者なのだろうか。
年齢も、性格も、こうして怪しい相手でしかないキッドに茶を振舞っている理由も、何もかもが判らない。
ここまで来れば少女が本当に少女であるかどうかも疑わしい。
さっさとこの屋敷を後にするべきなのだろうが、下手に動けばどうなることやら。
少女に邪気がないぶん、キッドの警戒は募った。
「だいじょーぶだよ」
幼女のような、声が響いて。

はあなたに何もしないし、何にもできない。だから安心してね、怪盗さん」

笑う少女は、という名なのか。
その夜キッドが知ることが出来たのは、たったそれだけのことだった。





続きません、たぶん。
2006年4月21日