僕の家は、緑がうっそうと茂る森の中にある。
あたり一面は果てのない木々。見えるのは青空。聞こえるのは動物たちの鳴き声。
人里から遠く離れた館。そこで僕は育てられた。
すべてから隔離された場所で、すべてを教えられて、僕は育った。





僕は幾度もアセビを手折る





「おはよう、母さん」
ダイニングに入り声をかけると、コンロに向かっていた母が振り向いた。
この人は魔法を使わずに、マグル方式で家事をこなす。かつてはメイドや屋敷しもべにさせていて、それこそ箸より重いものは持たない生活をしていたらしいのに。
今は手ずからフライ返しを握り、僕に毎食振舞ってくれる。
「おはよう、ラサラス。よく眠れた?」
頬に落とされるのは優しいキス。母はいつも僕に羽のように触れる。
「うん。お弁当を作ってくれたの?」
「ええ、あなたのリクエスト通りベーグルのベーコンエッグにチーズトマトカツのミラノサンド」
「フライドポテトにブロッコリーのサラダ?」
「デザートは紅茶のミルクフラッペ。冷めないよう、溶けないように魔法をかけておくわ」
「ありがとう、母さん」
頬にキスを返すと、母はそっと笑う。唇の両端を少し上げるだけなのに、それすらも上品な人だと思う。
たまに連れて行かれる街でいろんな人を見たけれど、僕は母以上に美しい人を知らない。
それはきっと、母の育ちが理由なのだろう。この人は今は亡き家の正当な末裔なのだから。
「忘れ物はないようにね」
「昨日確認したよ。全部ちゃんと持った」
「ふくろうは使えないから、何かあったら暖炉を使って」
「うん、隠し部屋の場所も覚えた」
「誰かと話すときは常に閉心術を忘れないで」
「特に相手が大人の場合」
「そう、そしてこれを」
ほっそりとした指先が伸びてきて、僕の髪を掻き分ける。その冷たさに思わず首を竦めた。
指が離れていっても右耳に残る、金属の感触。
「イヤーカフス?」
鏡を見て確認すると、母は頷いた。
「特殊な魔法がかけてあるわ。危害を加える呪文から、ラサラス、あなたを守ってくれる。だけど忘れないで。これはすべてを跳ね返せるわけじゃない」
「強い呪文は跳ね返せない?」
「そう。だから無茶なことはしないで。スリザリン・・・・・・特にマルフォイに気をつけて。スネイプにも、ダンブルドアにも・・・・・・ポッターにも」
母の瞳が、心配そうに紅く揺れる。幼い頃からずっと説かれ続けてきた事柄。
僕と母は危険。見つかれば追われることは間違いない。だから気をつけてとずっと言われ続けてきた。
「・・・・・・母さんも、気をつけて」
「ありがとう」
微笑む母はとても美しくて。
「愛してるわ、私の子」
可哀想だと、思う。



父親について、僕は知っている。
今はすでに潰えた―――それは正確ではないけれど―――ブラック家の次男、レギュラス・ブラック。
ホグワーツを卒業し、デスイーターに堕ちた男。兄であるシリウスにコンプレックスを抱き、兄の婚約者だった母に恋をした。
恐ろしくなって例のあの人の下から去ったけれど、数日のうちに殺された。それが、僕の父。
そう言われているけれど、特に何も感じない。レギュラス・ブラックは僕が産まれる前に死んでしまったし、母以外の誰かから話を聞いたこともない。
だから実感がない。最後には母を安全なこの家に移し、自身の命を削って守護の魔法をかけたと聞いているけれど。
僕にとっては話の中の登場人物に過ぎない。実感がない。
そう告げたとき、母はただ静かに笑った。



母はあの家から出れない。世間では家の滅亡と共に死んだとされているし、そのことを考えるとマグルの世界はまだしも、魔法使いで溢れる9月1日のキング・クロス駅なんて以ての外だ。
だから僕は一人でトランクを抱え、9と4分の3番線のゲートをくぐる。
寂しいとは思わない。ただ母を可哀想だと思う。そして勝手だと思う。レギュラス・ブラックという男を。
あの男は母を縛り続けている。支えになってほしいと言いながら、それだけを求めて。君だけは生き延びてと言いながら、あの家に閉じ込めて。
「・・・・・・最悪だ、ブラックなんか」
小さく呟いていると、後ろから来ていた誰かにぶつかった。
ふくよかな赤毛の中年女性。誰かの保護者だろうその人は、よろけた僕の片腕を掴む。
「あぁ、ごめんなさいね! 大丈夫かしら?」
「はい、平気です」
振り返った瞬間、その人は僕を見て目を丸くした。物心つく前から教え込まれた所作で、僕はとてもスムーズに閉心術を働かせる。
母の言っていた言葉がよみがえる。
『大人にはくれぐれも気をつけて。特に、私と同年代の人たちには』
何故、と問うた僕に母は写真を見せてくれた。
写っていたのは憎しみすら覚える父と、もう一人。
「あなた・・・・・・!」
中年女性が愕然とした声を漏らす。

『彼らはレギュラスと・・・・・・シリウスの顔を、よく知っているから』

実感はなかったけれど、やはりそうらしい。
伊達眼鏡などでは隠しきれないこの顔が、いくら整っていると言われようと僕は嫌いで堪らなかった。
母に似たかった。



ホグワーツ・エクスプレスの中は快適だった。
子供たちはブラックの顔を知らないし、同じ新入生の友達も何人か出来た。
「ラサラス、君はどこの寮に入りたい?」
「僕は・・・・・・レイブンクローがいいな」
そうすれば母が安心する。
「俺は断然グリフィンドール!」
「僕はどこでもいいけど・・・・・・スリザリンだけは嫌だな」
そのスリザリンだった母。狡猾に周囲を騙し、親しい友人も作らずに七年間耐え抜いた母。
そんな母の素を見抜いたところだけは、レギュラス・ブラックを見事だと言ってもいい。きっとしつこかっただけだろうけれど。
組み分けは血筋がかなり反映する。シリウス・ブラックが例外だっただけで、ブラック家も家も本家に連なる者はすべてがスリザリンだ。
だからこそ母は、僕がスリザリン以外に入ることを望んでいる。
「そういえばさ、二年生にハリー・ポッターがいるんだろ?」
「あ、それ知ってる! 見れるの楽しみにしてたんだ」
「一年生でクイディッチの選手になったんだって。すごいよなぁ!」
適当に相槌を打って、適当に仲良くなって、溜息を吐き出したい自分を抑える。
こんなところに来たくなかったよ、本当は。



ホグワーツがどんなに良い学校だろうと。
アルバス・ダンブルドアがどんなにすごい魔法使いだろうと。
学ぶ知識がどんなに素晴らしい魔法だろうと。
そんなもの何も意味がない。

意味があれば母はきっと、あんなに綺麗に笑わない。
僕はきっと、父を憎んだりせずに済んだ。



「ワイミール・ラサラス!」
「はい」
呼ばれる苗字さえ、本当のものじゃない。ブラックもも目立ちすぎる。僕は父の息子を名乗らない。母の息子を名乗れない。
一歩前に出れば、ざわめくのは生徒席じゃなくて教師席。閉心術を忘れずに唱えながら、何食わぬ顔で椅子に座る。
いつまでも降りてこない帽子に訝って顔を上げれば、顔色の悪いマクゴナガルが僕を見下ろしている。
「先生?」
首を傾げれば、慌てたように古ぼけた帽子が視界を塞いだ。
『む? むむむむ・・・・・・』
声が内側から聞こえてくる。母の話に聞いていた通り。
『君は何故、心を隠す? この私に心を読ませないとは、とてもじゃないが一年とは思えん』
「レイブンクロー」
『心が読めねば素質は分からん。悪いことは言わない、リラックスしたまえ』
「レイブンクロー」
『君の名は、何と言う?』
「レイブンクロー」
『・・・・・・いいだろう。そこまで君が私を拒み、その道を望むというのなら』
レイブンクロー、と帽子が寮の名を叫んだ。
一つのテーブルが湧き上がり、入寮を喜んでくれている。帽子をマクゴナガルに戻して、教師席を振り返らずにテーブルへ駆けた。
向けられ続けている視線には気づいていたけれど、その様子を出してはいけない。僕はただの生徒。
教師にも、ブラックにも、誰にも邪魔なんかさせたりしない。



その夜、教わっていた隠し部屋の暖炉で母と話をした。
レイブンクローになったと告げると、母はとても綺麗な微笑を浮かべた。



僕を見て絵画は囁きを交わす。ゴーストの中にはまじまじと見てくる奴もいる。
けれど肝心の生者は腫れ物に触るような扱いで、僕に問いただしてくることはない。
だけど聞いてくるとしたら、きっとこの人かダンブルドアだろうと母は言っていた。
「ミスター・ワイミール!」
隣を歩いていた同じ寮の友人が、自分が呼ばれたわけでもないのにびくりと肩を震わせた。
少しためらった振りをして後ろを向くと、そこにはやっぱり想像していた通りの人物がいる。
「話がある。着いてきたまえ」
一言だけ告げて歩き出す。スリザリンの男は全員が身勝手なのか。
「・・・・・・ラサラス、何やったんだよ?」
「分からない。ちょっと行ってくる」
友人たちに気の毒そうな視線で見送られながら、小走りで前を行く姿を追った。
ホグワーツは広い。いくつか隠し部屋や抜け道などは教わっているけれど、きっとそれ以外にもたくさんあるだろう。
母は独りで、この学校で七年を過ごした。
その間、同じ寮ということで比較的多く会話を交わしたのがこの男―――セブルス・スネイプ。
「入りたまえ」
案内された地下室は、まだ魔法薬学の授業を受けていない僕にとっては初めての場所。けれどとても居心地がいいとは思えない。
招き入れる際に感じた、精神への干渉。スネイプの開心術を僕の閉心術が相殺する。
スネイプが眉を顰めたような気がする。基から険しい顔だから、あまり差は分からなかったけれど。
「・・・・・・ワイミール、君の両親は魔法使いかね?」
さぁ、言葉を紡げ。今まで何度も繰り返してきた練習の成果を見せるとき。
「いえ、僕の母は人間、えっと・・・マグル? です」
「父親は?」
「知りません。母は一人で僕を育ててくれました」
大抵の人は可哀想に、とここで話を打ち切る。不明の父親に可能性を見出し、もしかしたらという疑心と共に。
「・・・・・・母親の名は?」
「サラ・ワイミールです」
これも偽り。母の本当の名は。僕たちは世間を欺き生きている。
「父親の話は少しも聞いてないのかね?」
「・・・・・・僕がお腹にいるときに別れたのだと、母は言っていました。父は僕の存在すら知らない、と」
作り上げられた『ラサラス・ワイミール』。一度だけ「ごめんね」と呟いた母。
そんなこと気にしなくていい。僕は僕としてここにいる。辛いのはむしろ母だ。
レギュラス・ブラックが母を望まなければ良かったのに。シリウス・ブラックが一族を裏切らなければ良かったのに。母が、家には生まれなければ良かったのに。
そうすればきっとあの人は、グリフィンドールで自由を手にした。
「でもスネイプ先生、何でそんなことを聞くんですか・・・?」
反撃のジャブは軽い意趣返し。僕は、魔法にまつわるすべてのものが嫌いだ。
「僕はそんなに、誰かに似ているんですか?」
憎んでさえ、いる。



人里から離れた森の中。隔離された空間で僕は育った。
語られたのは家の末路。教えられたのは身を守る方法。そばにいた母はとても美しい人だった。誰かのために自分の身を削ることを厭わない人だった。
その母を、シリウス・ブラックが七年削った。レギュラス・ブラックが今も削り続けている。
そして、僕も。
母の幸せを願いながら、僕が最も削っている。
もぐりこんだホグワーツのベッドは硬くて冷たい。

その夜、夢を見た。
振り向いてくれた母は、やっぱり僕には悲しそうにしか見えなかった。



泣かないで、母さん。
―――笑って。





曲がった子に育ちつつあります、ラサラス。境遇が境遇ですし、元がレギュラスとヒロインですしね・・・。外見はミニチュア・ブラックです。
2006年4月19日