青空を舞う花びらを、うっとうしげに払う。
視界の邪魔をするそれらを忌々しげに憎み、彼は歩を進めた。
卒業式の行われた広間から離れたそこに人気はない。
けれど彼は迷わずに進み、そして見つけた。
夏の日差しを浴びて輝く金糸に、そっと目を細める。
振り向いた彼女が茶の綺麗な瞳で彼を捉えた。

「・・・・・・レギュラス」

静かな声で名を呼ぶは、レギュラスの兄の婚約者だった。





フウセンカズラの涙





どんなに悔しかったか、きっとあの男は知らない。



「卒業おめでとうございます」
レギュラスの祝辞に、は浮かべていた微笑を変えずに目線だけを伏せた。
そして再び上げられた眼差しは、しっかりと目の前の彼を映している。
「・・・・・・ありがとう」
上品で育ちのよさを感じさせる微笑。少し陰りを帯びさせているこの笑顔がレギュラスは嫌いだった。
が何故、こんな笑顔を浮かべているのか。
あの男が何故、こんな笑顔を浮かべさせるのか。
レギュラスはすべて知っていたから。
手のひらを握り締める。唇を噛み締めかけて、意思を持ってそれを堪える。
顔を上げた。一つ年上という以上に、大人びた雰囲気を醸しているを、まっすぐに見据えて。
その向こうの、つい今まであっただろう憎らしい男の影を睨みつける。
「兄と決別したんですか」
別れたという言葉を避けたのは、深い意味がないと知っていても使いたくなかったから。
今までもこれからも認めるつもりはない。
あんな男、認めない。
がそっと視線をそらせ、悲しみを抑えるように小さな声で呟く。
「・・・・・・ええ、その通りよ」
「じゃあもう支障はありませんね」
ともすれば憤りさえ表してしまいそうな声音で、レギュラスは口を開いた。
はっきりと、硬く。
けれどどこか―――必死に。
縋るように、願いを。

「妻になって下さい。・・・・・・兄ではなく、僕の」

茶の瞳が睫毛を瞬かせ、光の具合で紅に変わる。
家の嬢』という仮面を僅かに崩せたことが、レギュラスは嬉しかった。
とてもとても嬉しかった。



どうしてこんなに喜びが胸を満たすのか、きっと、あの男は知らない。
絶対に、知る良しもない。



レギュラスが初めて『』に会ったのは、彼がホグワーツに入る直前のクリスマスだった。
ブラック家で開かれたパーティーに彼女が参加していたのだ。
『シリウス・ブラックの婚約者』として。
ホグワーツに入ったばかりのは、けれど年齢に見合った無垢な幼さを持っていなかった。
愛らしい笑顔と雰囲気を纏っているけれども、それは決して浮ついたものではない。
小さくても上品で気高い、立派なレディだとレギュラスの目には映った。
そしてそれは周囲も同じだった。彼らは口々に賞賛した。『家の嬢』を。
眩しかった。たった一つしか違わないのにホグワーツに通っている彼女が。大人相手に動揺せず話すことの出来る彼女が。
だけど、の隣にはいるべき存在がなかった。
ぽっかりと空いたスペースについて言及する人物はいない。
凛とした可愛らしい笑顔を壁際から見つめ、レギュラスは思っていた。

兄さんがいないなら僕がそこに行きたい。
レギュラスはずっとそう思っていた。

幼い憧憬は時を重ねるにつれ変化していく。
出来のよい兄に向けていた憧れはやがて憎しみに。
毎年一人でいるに向けていた憧れはやがて愛しさに。
変わり、募る。レギュラスの中を染めていく。
いつしか望むことが当然となっていた。

兄が拒むのならば、彼女は自分が貰う。
自分が彼女を妻に娶る。
そうなってから悔やめばいい。

自分の欲しいものをすべて持っている兄が。
持っているそれらをすべて捨てたがっている兄が。
どんなにに想われているのか知らない兄が。
ただひたすら憎かった。

この憎しみを、きっとあの男は知らない。
から捧げられた貴い愛に、きっとあの男は気づかない。
恨んだ。羨んだ。それと同時に想いが募った。



一人で佇み続けるを、幸せにしたいと強く思った。



見開いていた瞼を、ゆっくりと下ろしていく。
突然の言葉には困ったように表情を曇らせる。それは演技だとレギュラスは気づいていた。
ずっと見つめてきたのだ。彼女が『家の嬢』であろうとしていることを、『兄にとって』理想的な婚約者を演じ続けていることを、レギュラスはすでに知っている。
知っていて誰にも言わなかったのは、やはり彼女が愛しいから。
欲しいと、望んだから。
だからこそもう一度、同じ言葉を繰り返す。
「僕の妻になって下さい、さん。・・・・・・いえ、
呼び捨てられた名にが目を瞬く。
申し訳なさそうに顔を伏せる仕草も演技。そんなものもう見たくない。
見たいのは、笑顔だけ。この七年、『シリウス・ブラックの婚約者』になってからは浮かべなくなっただろう笑顔を。
素の顔を、見せて欲しい。
「あなたのことが好きでした。ずっと、ホグワーツに入る前から」
手のひらを握り締め、想いを告げる。
「正直、僕は兄さんに怒りを感じてます。あの人はあなたにどんなに尽くされていたのか全然分かっていない。あなたがいたからこそブラック家から望みどおり出て行けるのに、そのことにすら気づいてない」
硬さを帯びた声にの顔から表情が消える。
そして次の瞬間に浮かべられた笑みは、凛とした色鮮やかなものだった。
レギュラスが見たことのない、強さに溢れたもの。誇りに満ち、閃光に輝くそれに思わず息を呑む。
引きかけた心を戒める。下がってはダメだと言い聞かせる。
だって自分はこの人が欲しいのだ。だから、引けない。
「いいのよ、あの人は分かっていなくて。知られないことを私は望んだのだから」
髪をかき上げる仕草さえ、一瞬前とは違って見える。
令嬢としての清楚さに初めて見る色艶が加わり、心臓が鼓動を早める。
「まさか気づかれていたなんて・・・・・・甘かったわね、私も。だけど黙っていてくれてありがとう」
「・・・・・・決して兄さんのためじゃありません。あなたのためです」
「だからこその、『ありがとう』よ」
ふふ、と紅い唇が笑みに綻ぶ。
本当に楽しそうに笑う様子に、レギュラスも思わず口元を緩めた。
好きだと思う。素の彼女を目の当たりにして、愛しいと思う気持ちが募ってくる。
好きだ。欲しい。傍にいて欲しい。
兄と同じように愛して欲しい。あの優しい眼差しで包み込んで。温かな愛を感じさせて。
レギュラスは左の二の腕をきつく握り締めた。
無意識のうちに行われているらしい所作に、は目を細める。
その場所に何があるか知っている。焼き付けられたのは、逃げることを許さない闇の印。
「あなたが好きだ・・・・・・っ」
己を腕を握り締めて告げるレギュラスの顔は青ざめていた。
「傍にいて欲しい・・・っ・・・僕の、傍に・・・! 絶対に・・・・・・幸せにするから・・・っ」
左の二の腕。今にも泣きそうな顔。視線を合わせずに告げられる愛の言葉。
「誰にも手出しなんてさせない。それが例え『あの御方』だったとしても・・・・・・!」
そのどれもがの情を誘った。同情よりかは憐憫。そして。
「・・・・・・頼む、から・・・・・・っ」
零れた雫はきっと、『ブラック家のレギュラス』が口に出せなかった本音。

「僕を・・・一人にしないで―――・・・・・・っ!」

縋るような懇願に、は気づいた。
レギュラスは自分と同じなのだ。



自由に焦がれながらも、飛ぶことの出来ない人形。



浮かんだ考えには笑った。自嘲的な気持ちで、自分とレギュラスのネクタイを眺める。
緑と銀色のそれは誇りであり、また鎖でもあった。
自分たちを地上に繋ぎとめるための。
手を伸ばし、指をそっとレギュラスの腕に触れさせる。
強く握り締められている左の二の腕に。
弾かれるように顔を上げた彼に、は笑いかけた。
自分たちは同じだ。
『彼』のように自由に飛べない。
それでもせめて、片方ずつでも翼を持てたなら。
そうしたら、いつか。
・・・・・・願いを込めて、手を繋ぐ。

「私があなたの安らぎになれるのなら―――喜んで」

指を絡めあって縋る。
離れないように、傍にいられるように。
闇に、飲み込まれないように。
今ここにある自分を感じたくて、きつく抱きしめあった。



あなただけはどうか、永久に自由でありますように。



暗い地の底から―――祈る。





2005年4月2日