シリウスの胸には、様々な感情が渦巻いていた。
ピーターを目前にして逃がしてしまった後悔と怒り。リーマスと再会し、変わらぬ友情を確認した喜び。
ディメンダーから逃げられたこと、アルバス・ダンブルドアから信頼を得られたこと。
数え切れないくらいの気持ちが心の中を行き交っている。
けれど何よりも嬉しかったのは、親友の息子であるハリーが自分のことを信じ、名付け親として受け入れてくれたことだった。
今はまだ冤罪の晴れぬ身だけれども、いつか必ず明るい日の下で共に暮らそう。
決意を胸に、シリウスはバックビークの背から降りた。
日中である今、空を飛んでいればマグルに目撃され、すぐに魔法省にも見つかってしまう。
うっそうと茂る森の中で昼を過ごし、夜になったらまた飛び立とう。
その間の食料を得るため一歩踏み出すと、鈍い痛みがシリウスの足を走った。
「・・・・・・リーマスを抑えた時か・・・」
引きずりはするけれど、歩けないわけじゃない。薬草でも見つけたらそれを塗り込めばいい。
そう考えて足元の草を掻き分けたとき、カサリ、と草の擦れる音がして、シリウスは反射的に犬の姿になった。
人間のときより鋭くなった嗅覚が、自分以外の存在を捉える。
だんだんと近づいてくるそれに唸り声を上げて威嚇していると、薄暗い光の中で人間のシルエットが見えた。
「―――犬?」
怯むことなく影は近づいてきて、全身が視界に映る。
ヒュッとシリウスの喉が引き攣った。

「・・・・・・怪我してるの?」

大きなバスケットを持っている女性は、整った眉を顰めてシリウスを見下ろす。
その瞳は光を受けて、茶から紅に煌めいていた。





永久のスイセン





近づいてきた女性は、スカートにも関わらず慣れた様子で草むらを歩いてきた。
その際に持っている大きなバスケットが少しだけ揺れる。
木々が光を遮る所為で女性の造作はよく判らないけれども、それでもシリウスにははっきりと見えた。
茶色の、紅に煌めく瞳が。
彼女はシリウスの元まで近づいてくると、膝をついて彼の足に手を伸ばす。
あまりにもその仕種が自然で、息を呑んでいたシリウスは振り払うことが出来なかった。
「・・・・・・結構深いわね。でもこれなら家の薬で治るわ」
顔を上げると、かがんで近くなったことで見えた女性の顔立ちに、心臓が大きく音を立てる。
どんどんと鼓動が早くなっていく。息が乱れそうになり、歯を食いしばった。覚えていた。
―――覚えていた。この瞳の色も、この整った顔立ちも。もうずっと昔のことなのに、記憶から消えていなかった。
「私の家、すぐそこなの。ついてきて」
微笑して背を向ける女性の髪は金色。静かで凛とした雰囲気は変わっていない。
まさかと思う。まさかとは思うけれども。
森の中を数分歩いているうちに建物が見えてきて、家と言うには大きなその玄関を女性はくぐる。
周囲は木に囲まれているのに、その屋敷の上には切り取ったような青空が広がっていた。
明るい陽の光が降り注ぐ庭には洗濯物が干されている。日常生活の温かさがそこにある。
「おいで」
金色の髪、光の具合で紅く見える茶の瞳。優雅な物腰と洗練された仕種。
静かに呼ぶ姿は、シリウスの最後に見た彼女とまったく変わっていなかった。
変わっていない。変わっていない、あの時に抱いた信頼を、最後の最後で得た共感を今もまだ忘れていない。
―――だから。

身体の節々が変化をし、まるで細胞が入れ替わるかのよう。
目の前の彼女が息を呑んだ。茶の瞳が見開かれ、そしてゆっくりと細められる。
審判を待つ必要などなかった。

「久しぶりね・・・・・・シリウス」

向けられた微笑の柔らかさに、シリウスは熱くなる胸を押さえて俯いた。
忘れていなかった彼女は、やはりかつての自分の婚約者。
―――だった。



覚えている。忘れない。
本当の意味で知り合ったのは一瞬だったけれども。
それでも尚、彼女の存在は眩しかった。
長いときを経た、今なら分かる。

彼女は自分を守ってくれていた。
己のその翼をもってして。

羽ばたく力を与えてくれた。



玄関に通されるなりバスルームに押しやられ、笑顔を一つ与えられた後にドアを閉められる。
押し付けられたバスタオルが柔らかくて、シリウスは思わず笑った。
何だかやけに今の現状がおかしかった。本当ならば疑ってしかるべきなのに、そんな気にならない。
彼女―――は自分を裏切らないだろうという確信が、何故かシリウスの胸にはある。
それはおそらく過去に一度だけあった彼女とのやり取りが理由なのだろう。
信じられるという気持ちが、15年たった今も変わらずにある。
シャワーを浴びて出れば、男物の洋服が用意されていた。
真新しい感じはしなかったので、おそらく誰かのものなのだろう。
そう考えて、シリウスはほんの少しだけ眉を顰めた。
・・・・・・あれから15年も経っているのだ。彼女に夫がいても当然。
幸せな家庭を築いていてくれたなら嬉しい。そう考えながらシャツを羽織る。
パリッと糊の貼られているそれが、何故かとても懐かしく感じた。

廊下を歩いていると、数々のペストリーや装飾品が目に付いた。
けれどそれらはすべて色あせていて、大きな屋敷だけれどもどこか質素な印象を与える。
何故だろうとシリウスは思う。
は魔法界でも高貴な血統で著名な家の長女だ。
嫁いだ相手はそれなりの家柄だろうし、そんな彼女がみすぼらしい生活をしているだなんて考えがたい。
そこまで思い、シリウスは自分がアズガバンに投獄された後、家がどうなったのかを知らないことに気づいた。
自らのブラック家さえ滅びたのだ。同じ純血を謳っていた彼女の家も、もしかしたら同じ運命を辿ったのかもしれない。
明るくなっていた気持ちが一気に冷える。けれど壁にかけられていたペストリーを見て、かすかに笑みが戻った。
そこにはと、彼女の息子らしい黒髪の少年が笑顔で手を振っていた。
シリウスも軽く振り返す。こんな笑顔が浮かべられるのなら、彼女は大丈夫だろう。
そう半ば、自分に言い聞かせてリビングのドアを開いた。
続きのダイニングで皿を並べていたが振り返る。
彼女が幸せだといい。
そう、思う。



「あぁ、ラサラスというの」
久しぶりのまともな食事を掻っ込むように食べるシリウスの向かいで、は紅茶を飲みながら息子の名を告げた。
「今はホグワーツの二年生よ。そうね、ポッターの一つ下かしら」
「ハリーのことを知ってるのか?」
「噂だけよ。会ったことはないわ」
耳にかかる髪をかきあげるは、シリウスが最後に見たホグワーツの卒業式のときよりも、ずっとずっと大人になっていた。
15年という時を考えれば当然だが、それでもはっとさせられる。
かつては知ろうとしなかった。彼女はこんなに美しかったか?
「・・・・・・旦那は?」
「死んだわ。もう随分前に」
「そう・・・・・・か」
「ブラック家が沈むのと同じ頃にうちも潰えたの。私が生きてるのは、ひとえに夫が守ってくれたからよ」
は何でもない様に言うけれど、そう振舞えるようになるまでどのくらいの悲しみを生きたのだろう。
けれどそれを感じさせない涼やかな笑みで、彼女は笑う。
「あなたこそ・・・・・・大変だったみたいね」
穏やかな声と静かな言葉が、すんなりとシリウスの中に溶け込む。
瞬間的に胸が苦しくなり俯いた。
伸びっぱなしの前髪が表情を隠す。まだ乾ききっていない髪に、はそっと手を伸ばした。
黒い髪に触れる。懐かしさにも似た感触に、思わず唇が解けた。
「―――お疲れ様」
胸が熱い。



時が流れた。
幸福だった日々は終わりを告げた。
塗りつぶす闇。後悔ばかりの日々。
笑顔が苦しみに変わる。
楽しかった過去が今を縛る。

幸せが欲しいと、強く思う。



「一緒に暮らそう」
優しく己を撫でてくれた手を握り締め、シリウスは顔を上げた。
驚きに見開いている目を見つめる。言葉にした分だけ、そう思う気持ちが強まった気がする。
「俺が冤罪を晴らして、『例のあの人』がいなくなって、平和になったら」
どうしてもっと早くこうしなかったのだろう。
どうしてあの頃、彼女のことを無視なんてしたのだろう。
「一緒に暮らそう・・・・・・俺と君と、ハリーとラサラスと・・・・・・四人で」
が笑った。それはどこか困ったような、わがままを言う子供に向けられるような、そんな苦笑。
けれど発される声は穏やかだった。優しかった。
「相変わらずね、あなた。また私の時間を奪うつもりなの?」
情けなく眉を顰めたシリウスに、は笑う。

「でも仕方ないから、待っていてあげるわ」

撫でてくれる手は温かかった。
まるで母親のようなそれに涙が滲んだ。



幸せになりたいと、心の底から願った。





2005年3月31日