呼ばれて振り向くときは、スカートが翻らないように気をつける。
足をきちんと揃えて、背筋を伸ばして、爪先から髪一本に至るまで気を抜くな。
浮かべる笑みも醸し出す気品も、何もかもが美しくなくてはならない。
「何でしょうか、お母様」
言葉遣いには殊更の注意を。声は常に穏やかで優しく、調べのような響き帯びろ。
「あなたの婚約者が決まりました」
小さくてもレディらしく。幼くても貴婦人らしく。
恥じないように蔑されないように、常に気高く美しくあれ。

「お相手はブラック家の長男、シリウス様です。ホグワーツに入学すればお会いするでしょうから、くれぐれも粗相のないようになさい」
「はい、お母様。家の名に相応しくなるべく努力いたします」

スカートを軽くつまみ、腰を屈めて了承の意を。
親の言葉に従うだけの私は、作られた人形。
美しく象られ、厳しく育てられ、家の総意をすり込められた。

自由のない、人形。





秘められたニゲラ





王子様の存在を信じていたのは、二桁の誕生日を迎えるまでだった。
いつか王子様が来てくれて、この日々から連れ出してくれるのだと、まるで絵本のような夢物語を信じていた。
の家は嫌いではない。だけど毎日のレッスンは好きじゃなかった。
幼くても一人前のレディであるよう、立ち居振る舞いから言葉遣い、知識教養に場にあった話題選び。
容姿も美しさを保つように、ダンスは優雅に踊れるように、微笑む際の唇の角度や、目線だけでの物の言い方。
社交界に出ても恥ずかしくないよう、の名を汚さぬように、厳しい家庭教師と毎日レッスンに明け暮れた。
子供時代なんてなかった。あるのはレディになるよう仕込まれているただの養育。
の家は嫌いじゃない。だからこそには辛かった。
誰かがこの世界から連れ出してくれればいいのに。そんなことを毎日夢見た。

だからこそ一目で判ったのかもしれない。
自分の婚約者である彼が、何を望んでいるのかを。

そしてそれを叶えてあげようと決めたのは、ホグワーツに入学したその日だった。

「グリフィンドール!」
帽子が高らかに叫ぶ声。四つあるうちの黄色と青のテーブルでは拍手が、緑のテーブルでは囁きが起こる。
赤と金の輝きに溢れたテーブルで喝采と共に受け入れられている彼を見つめながら、は帽子を被った。
少しの間の後で帽子は叫ぶ。おまえたちは違うのだよ、と。
「スリザリン!」
違う道を行くのだよ、と教えられた気がして、は笑った。

あなたはグリフィンドールだけど、私はスリザリン。
それなら私はあなたの魔法使いになってあげる。



あなたに不思議な魔法をかけて、荊の塔から逃がしてあげるわ。



由緒ある純血として著名なブラック家と家は、魔法界で知らぬ者はないほど有名な家系だった。
だからこそ、その直系であるシリウスとの婚約もかなりの人物が知っていた。
そしてシリウスがそれを厭うていることも、ホグワーツの中では当然のように広められていたのだ。
入学当初からその容姿と家柄で注目を集めていた彼は、すぐに同じ寮の女生徒と交際を始めた。
噂はすぐに生徒の間を駆け抜け、グリフィンドールから最も遠いスリザリンへも運ばれる。
その知らせを耳に入れて、は笑った。
あぁ、やっぱり彼も王子様を欲しているのだ、と。

ご丁寧にも他寮の生徒たちは助長してくれる。
「あの人がさんでしょ?」
「あぁ、あのシリウス・ブラックの婚約者の?」
「何でも親に無理やり決められたんだって」
「だからシリウスは彼女がいるのに他に恋人を作ったりしてるんだ?」
優しい優しい同寮の友人たちは励ましてくれる。
「気にしない方がいいわよ、
「そうよ。シリウスも今はグリフィンドールなんかに組み分けされて自棄になっているだけよ」
「そのうちあなたの魅力に気づいて戻ってきてくれるわ」
「なんたって彼はブラック家の長男なんだもの」
時には間違った優しさを示してくれる人もいた。
「ブラックなんか君に相応しくない。僕と付き合ってもらえないか?」
時には正面から相対してくる人もいた。
「シリウスはあなたとの婚約を嫌がってるの。だから解消して頂戴!」
意見は様々。それらすべてに相応の表情を返す。
昔から場に応じた対応をするように教えられてきたのだから、辛そうな顔も、悲しそうな顔も、どんな顔も作るのは簡単。
学校では大人しく、彼の視界に入ることのないように。彼が気ままに過ごせますように。
長期休暇のパーティーでは、エスコートを務めてくれるはずの彼がいないのを、悲しそうに少しだけ無理して笑ってみせる。
演じてあげる。シリウス・ブラックの婚約者を。

あなたを縛り付ける荊の一つを。
あなたを自由にする羽の一つを。

演じてあげるわ。私のすべてで。



誰にも知られずに、誰にも悟られずに。
友人はおろか両親も、ブラック家も、婚約者である本人でさえも。
騙して騙しぬいて、慎ましやかな女を演じてあげる。
自分がいなくなっても、どうせまた別の女と無理やりに婚約させられるのだろうから。
文句も言わない。干渉もしない。それでいて婚約を解消しない都合のいい女になってあげる。
スリザリンだもの、それくらい出来るわ。
七年間、誰にも心を許さず生きてあげる。

だからお願い。飛ぶときは連れて行って。
あなたの翼に、私の夢を。



自由を夢見た幼い私を、あなたと共に連れて行ってね。



「・・・・・・本当にそれでいいの?」
問いかけには笑う。
その顔は『大人しくて献身的な』とはかけ離れた、色鮮やかなものだった。
儚さなど感じさせない。意志の強い瞳が彼女のすべてを強く照らす。
唇から発される声すらも、普段の彼女とは全く違った。
「―――良いも何も」
はっきりとした言葉が、決意を告げる。

「彼はグリフィンドールだけど、私はスリザリン。それだけのことよ」



あなたは自由になれるけれど、私は囚われたまま動けない。
王子様は来ないと判ってしまった。だから魔法使いになってあげるわ。
呪文はあなたに七年の時を与えて、その後一つの荊を解いてくれる。
残りはあなたの仕事よ。グリフィンドールなんだから、そのくらい出来て当然よね?
勇気ある者の証を私に見せて。
眩しい未来を、その手で掴んで。

飛んでいくあなたを、見送らせて。



花吹雪が舞い落ちる中、は足を進めた。
周囲では別れに涙する生徒たち。その中で一際目立つ集団に向かって近づいていく。
振り向いた赤毛の少女が、何か言いたげに唇を開いて、けれど閉じた。
これが最後の魔法。
背の高い後ろ姿に向かって、口を開く。

「――――――シリウス・ブラック」

振り向いた相手の視線の冷たさに、は内心で笑った。
どうやら自分は七年の間、本当に彼を騙しぬくことが出来たらしい。
さすが私ね、とは自画自賛する。
だからこそ最後まで演じ通す。あなたが後悔しないような爽やかな別れを作り出してあげる。
幸せな時を終わらせて、新たな日々の幕を開けなきゃ。
そのための一歩を、今踏み出す。
自分のために。そして、彼のために。

「話があるのだけれど、少し良いかしら」

きっとこの数分が、ホグワーツにおける思い出のすべてになるだろう。
はそう考えて、出来うる限りの笑みを浮かべた。



シリウス・ブラック
・・・・・・・・・あなたは私の、永遠の夢。





2004年11月8日