夏を間近に控えて、ホグワーツの卒業式は行われた。
歴代稀に見る華やかさのそれは、去る者として悪戯仕掛け人が行った最後の悪戯だった。
空から舞い落ちる花吹雪。
涙して肩を抱き合う生徒たち。
目を細めて見送る教師陣。
肩を組んで親友たちと笑い合うシリウスは、卒業を悲しんではいなかった。
育んだ友情は離れても変わることはない。
そう信じているからこそ涙することもなく、新しい日々の始まりを迎合する。
そんな彼を引き止めたのは、聞く者を魅了するかのように耳に残る声だった。

「――――――シリウス・ブラック」

息を呑んで振り返る。
肩を解かれたジェームズが訝しんで振り向き、眼を見張った。
流れるような金色の髪、深い色の瞳、形の良い顎を引き、凛と立っている姿。
ローブには卒業生の証である花が飾られている。その隙間から見えたネクタイは、緑と銀色。
少女と呼ぶには躊躇いを感じさせるほどに静かな雰囲気を持っている彼女を、ジェームズは知っていた。
けれど彼は初めて見たのだ。彼女がシリウスに話しかけるところを。

「話があるのだけれど、少し良いかしら」
「―――あぁ。俺もおまえに用があるしな」

濃灰色の瞳を細め、酷く冷たい声で答えたシリウスにも表情を変えない。
名前をという彼女は、純血として魔法界で広く知られる家の長女だった。

そしてまた、シリウス・ブラックの婚約者でもあった。





ストックの咲く季節





のんびりと庭を歩きながら、こうするもの最後だと思うとかすかな感傷がシリウスの胸に浮かんできた。
裏道さえ知り尽くしたホグワーツを去るのは、やはり少し悲しい。
もっとずっと過ごしていたかったと思うし、やりたかったことも残っている。
それでも後悔せずに卒業を迎えることが出来たのは、胸を張り誇れることが出来るからだろう。
素晴らしいものを、ホグワーツでたくさん得た――――――と。

だからこそ彼は、すべての柵を抜けて新しい日々を迎えようと決めていた。
数歩先を歩く後ろ姿を見やり、口を開こうとする。
その瞬間に何故だか今更のように気がついた。
ホグワーツの制服を着ているとこうして過ごすことは、七年間の中で一度たりとてなかった。
彼女は、自分の婚約者であるというのに。

足を止めて振り返る際に、絹のような金糸が揺れる。
シリウスはその髪に触れたことがなかった。触れようとも思わなかった。
声を聞くことさえ嫌だったし、姿を見ることさえ拒んでいた。
それほどまでに彼は自身の名である『ブラック家』が嫌いだった。
定められた婚約者であるを、頑なに無視するほど。
「卒業おめでとう」
こんな声をしていたのかと、今更ながらに気づいた。
長期休みに行われるパーティーをシリウスはすべて欠席していたからだ。
己がそうすることで、おそらく彼女は数え切れないほどの恥辱を受けただろう。
いい気味だと思う。彼はそれほどにブラック家が嫌いで、同じ純血を謳う家の彼女が嫌いで、マグルを認めようとしないスリザリンが嫌いだった。
親に決められた婚約者など、シリウスにとっては邪魔者以外の何者でもなかった。
その鎖を、今切ろうと思う。
新たな日々に『ブラック家』は必要ない。
それに準ずるすべてを、シリウスは断ち切るつもりだった。
だからこそ口を開く。
「一つだけ答えて」
強制的な関係を無に消す言葉は、彼女から発された声に遮られた。
眉を顰めたシリウスを見上げては唇を震わせる。
深い茶の瞳が、光の加減で紅く見える。
シリウスは初めて、彼女の顔を見た気がした。

「あなたは、『ブラック家』を継ぐ気はないのね?」

問われた言葉に、シリウスは頷いた。
彼にすれば明瞭なそれは、ホグワーツに在学していた七年の間に得た譲れない答えだった。



純血なんてものは価値がないのだとシリウスは知った。
闇の魔法など滅びればいいのだとシリウスは知った。
ヴォルデモートに相対すれば間違いなく杖を向けるだろう自身をシリウスは知った。
『ブラック家』の中にいては決して知ることの出来なかった事柄は、シリウスの心を静かにゆっくりと満たしていった。
温かく優しいそれらを守るためならば何でもしよう。
掛け替えのない友を得て、シリウスは決めた。
『ブラック家』など、彼には必要のないものだと。



「・・・・・・そう」
シリウスが頷いたのに対し、の反応はそれだけだった。
もっとうるさく追求してくるだろうと思っていたから、予想外のことに軽く眼を見張る。
けれどすぐに顔を険しくした。目の前にいるのは彼の嫌うスリザリンの、純血主義である家の、ブラック家によって定められた婚約者。
一度伏せられた瞼を見下ろす。金色の睫が頬に影を作っていた。
すぐにまた視線を合わせてくる顔には、そういえばスリザリン特有の高慢さは見られない。
驕ることのなさそうな瞳は、親友の恋人をも思い起こさせるような意志の強いものだった。
「じゃあ婚約も解消ね。七年間ご苦労様。パーティーをすべて欠席するのは結構大変だったでしょう?」
さばさばとした物言いに、思わず口が開く。
驚いた様子のシリウスに、は唇だけで楽しそうに笑んだ。
「七年間、私に恥を塗り続けてくれてありがとう。だけどそのおかげで評判も得れたわ。『家の嬢は、献身的で慎ましやかな女性』ってね」
「・・・・・・てめぇ・・・っ」
どうにか搾り出した声は、我ながら愕然としたものだとシリウスにも判った。
落ちる肩を止めることは出来ず、知らないうちに張り詰めていた緊張の糸が緩むのを感じる。
本当ならば怒るシーンなのかもしれないが、ともすればしゃがみ込んでしまいそうになる膝に力を入れて堪えた。
「・・・そんな性格してたのかよ・・・・・・」
「そうよ。あなたは知らなかったでしょうけれど」
軽やかな応酬には皮肉も含まれているけれど、それは決してシリウスの気分を害さない。
彼女の瞳や雰囲気がそうさせるのかもしれないが、何より頭の回転が速いのだろう。
確かにグリフィンドールよりはスリザリンの特性を秘めているだろうが、それでも陰険さは感じられなかった。
「まったく、良い迷惑だったわ。どうして私のように前途明るく美しい女が、たかが一人の男の我侭に七年も付き合わなきゃならなかったのかしら」
「自分で言うな、自分で。まぁ・・・・・・・迷惑かけたのは、悪かったけどよ」
視線を逸らして謝罪を口にすれば、小さな笑い声が返ってくる。
そちらを見やれば、しごく楽しそうに笑っていると目が合う。
金色の髪を後ろへ流す仕種は滑らかで生まれのよさを感じさせ、良い意味で『家』の香りをシリウスに与えた。
「謝罪なんていらないわ。謝られても私の青春が返ってくるわけじゃないもの」
あっさりと述べるは、シリウスの初めて見る『婚約者』だった。



定められた婚約者など、シリウスには邪魔なだけだった。
ただのお嬢様ならまだしも、純血を重んじる『家』の長女が相手だと知って、更にその感は強くなった。
視界に入れることを拒み、その存在を無視するようにいろいろな女と付き合った。
二人の婚約を知っている者も多かったから、彼女は周囲から何かしら言われ続けただろう。
その想像は容易かったが、けれどシリウスが罪悪感を抱くことはなかった。
ではない女をダンスパーティーに誘い、ではない女とキスを交わし、ではない女と肌を重ねた。
そのことに罪悪感なんて微塵も感じなかった。
シリウスは不思議なくらい彼女の存在を忘れて日常を過ごしていた。思い返すのは長期休暇の際に家に帰ったときくらいのもの。
その事実に今更ながらに気づく。
シリウスがの存在を知っていて、憎く思いながらもずっと意識せずに毎日を過ごせていた理由は。

彼女が、シリウスに近づかなかったからだ。

気づく事実の多さに、シリウスは愕然とした。
自分は全く見ていなかったのだ。
という彼女個人を。



風が生徒たちの声を運んでくる。それは、気づくには遅すぎたことをシリウスに教える。
婚約者ではなく、個人を知るにはあまりにも気づくのが遅すぎた。
「両家には私から言っておくわ。もういい加減に訴えてもいい頃でしょ。『あのような冷たい方なんて、わたくしはもう耐えられません』って」
小気味良い話し方。耳に響く歯切れの良い声。
洗練された立ち居振る舞い。美しく造作の整った顔。
「あなたはブラック家から出て行くのよね? それなら少しくらいの汚名は被ってくれるでしょう?」
「・・・・・・俺はしばらく他国を回るつもりだし、好きにしろよ」
「遠慮なくそうするつもりよ」
楽しげに笑う表情は、悪戯を企んでいるときの親友のそれに似ている。
眩しかった。何度も見てはいたのに、初めて会う人間のようだった。
「おまえは・・・これからどうするんだ?」
「そうね。新たに他家との縁談が決まるかもしれないし、もしかしたら傷心の娘を気遣って少しの間は自由にさせてくれるかもしれないわ」
「――――――なら」
知らない間に、言葉が口をついていた。
やりたいことがないのなら。

「俺と一緒に来ないか―――・・・・・・?」



婚約者だから、家の娘だから、スリザリンだから。
だから無視をしていた。純血主義で傲慢なうるさい女だと勝手に決め付けていた。
けれど今目の前にいる彼女は全然違う。
聡明で美しく、誇りを持っている。
シリウスが彼自身に抱いているように。

彼女は他の何でもない、『』自身に誇りを持っている。



驚いたように目を見開くと、やはり光の差し込み具合で茶の瞳が紅に変わる。
色白の頬を緩めて、唇を綻ばせる様子をシリウスはじっと見つめた。
美しい女だと思った。
「せっかくのお誘いだけれど、これ以上あなたに時間を費やす気はないの」
言われて今更ながらに、自分は七年の間彼女を無視していたことを思い出した。
「お気をつけて。不出来の純血に世間は優しくないわよ」
「・・・・・・判ってる」
自身は不出来だと思っていないし、おそらくも言葉のままにシリウスを『不出来』と言っているわけではないだろう。
『純血主義じゃない』というだけで、不出来なのだ。彼らの家系では。
その柵から自分は抜け出ることを決めた。そして初めて相対した今、にもその柵は相応しくないと思う。
顔を顰めたシリウスの心中を察したのかもしれない。
ゆるやかには笑みを浮かべた。
「あなたはグリフィンドールだけど、私はスリザリン。それだけのことよ・・・・・・」
小さな呟きはシリウスまで届かなかった。
涼やかな微笑がどことなく淋しげに見えたことだけ、彼の心に残った。



短い逢瀬だった。
共有した最初で最後の時間は、時間にして数分のものだった。
悔やんでも遅い。道は違えた。
シリウスは肩を降ろし、を見下ろす。
その眼差しは最初とは違い、穏やかで柔らかいものだった。
親友に向けるのと同じそれを、最初で最後の今、彼女に注ぐ。
「おまえが婚約者じゃなかったら良かったのにな」
そうすればきっと、もっと違う出会いが出来た。友になれたかもしれない。恋をしたかもしれない。
「婚約者だから出会えたのよ。私たちはきっとこういう運命だったんだわ」
「・・・・・・悪かったな、今まで」
「謝罪はなしって言ったでしょ?」
も、シリウスも、互いを見詰め合って笑った。
風が二人の間を通り行く。



「さようなら、シリウス」
「あぁ。・・・・・・じゃあな、



最初で最後、名前を呼び合った二人は『婚約者』ではなかった。
ついに触れられることのなかった髪を靡かせ、は背を向けて歩き出す。
シリウスは姿勢の良い後ろ姿が見えなくなるまで、そのまま動かずに見送った。
夏の日差しがホグワーツに降り注ぐ。

静かで柔らかな季節は終わりを告げ、新たな日々が幕を開ける。





2004年11月4日