『鮭が食べたい』
一枚の手紙によって、少女の家の夕飯は決まる。





正しい男女交際の仕方





「ねぇお母さん。落し蓋なんだけど、どこに仕舞ったか判る?」
「あぁ、それならこの前買い換えたから、後ろの棚の中」
台所から聞こえてくる声に、リビングでドラマの再放送を見ていた少女の母親は返事を返す。
パタパタとスリッパの足音。
バタンと扉を閉めた音。
「あったー?」
「あったー」
軽やかな返事と共にやはりパタパタという足音が聞こえて。
ドラマのエンディングテロップを見終わると、母はソファーから立ち上がり、台所へと足を向ける。
そこにはコンロの前に立ち、鍋を見ている娘の姿。
「夕飯はなーに?」
「今日は鮭のホイル蒸し。付け合せはポテトとキノコとクレソンでいい?」
「上等」
ダイニングの椅子に座ると一分遅れで緑茶が差し出されて。
「ありがと」と言うと、少女はニコッと笑って味噌汁の製作へと取り掛かる。
自分の娘ながらよく出来た子だなぁなんて、しみじみと思ってしまった。
先日デパートへ買い物に行ったときに偶然見つけて、半ば冗談で買った白いレースのエプロンが、何でかまた違和感なく少女に似合っている。
台所に立って包丁を握る姿もいつの間にか様になっていて。
中学二年生にしてここまで料理が出来るのというのはアリなのか、と首を傾げることもしばしば。
けれど調理をしている娘はとても楽しそうだから、まぁいいかなと。
「・・・・・・そう言えば、『鮭が食べたい』って手紙が来てたっけ」
「うん、そう。だからとりあえずはホイル蒸しから」
母の呟きに頷いて、娘はオタマで鍋をかき回す。
それを見ながら母親は、『ホイル蒸しから入るところが、この子の性格を表してるわねー』なんて思ったりして。
焼き鮭・刺身・フライ・バター焼き・鍋にチラシ寿し。
しばらくは鮭のメニューが続くのだろう。
一見大人しそうに見えて実は頑固な子だから、オニギリ一つとっても具の鮭にこだわることは目に見えていて。
少女の母親は小さく笑った。



一枚の手紙によって、少女の家の夕飯は決まる。



「ヒナセ君、今度はどこだって?」
「青森みたい。秋までいられたら林檎を送るって」
「そりゃーいい。買わなくて済むなんて助かるわ」
カラカラと笑って言った母親に、少女も「そうだね」と楽しそうに笑う。
ヒナセ君とは本名を日生光宏といい、件の手紙の送り主である。
手紙とは言っても真っ白な官製はがきにボールペンで2・3行書き綴られた簡素なものだが。
二週間に一度の割合で送られてくるそれは、いつも似たような言葉で始まる。
前回の場合はこうだった。
『スパゲティが食べたい』
そうして少女の家の夕飯は決まる。



「「いただきます」」
両手を合わせて挨拶をし、夕食の団欒が始まった。
帰宅の遅い父親の分は最初から別に取っておき、母娘二人で食卓を囲む。
「あ、美味しい」
「本当?」
呟いた感想に娘は嬉しそうに笑い、それを見て母は「可愛いなぁ」と思う。
今日のメニューは白飯にネギと豆腐のお味噌汁。
鮭のホイル蒸しにポテトとキノコとクレソンが添えられて。
二つの小鉢には筑前煮とほうれん草のおひたし。
まさに絵に描いたようなお夕飯。
それを中二になる少女がサラリと作ってしまうのだから驚きだ。
しかも味は保障つき。
母としての仕事が取られている気がしなくもないが、娘が望んでやっているのだし、楽になるのに越したことはないということから、この一家の夕飯は少女の担当になっている。
メニューに偏りはあるが、味は絶品なので言うことはナシ。
今思い返せば、娘が夕食を作ると言い出したのは中学生になったばかりの頃だった。
きっとヒナセ君とやらに会ったのがその位の時期だったのだろうと母は思う。
それから半年後には定期的に例の手紙が届くようになり、少女も折に触れて薄い緑色の封筒をポストへと投函している。
傍から見れば可愛らしい恋愛。
しかし当の二人は何かが違った。



「ヒナセ君も幸せ者ねぇ。こんな料理上手の彼女がいるなんて」
あ、でも離れてたら意味ないかと母が呟くと、娘は不思議そうに首を傾げた。
「私、日生の彼女じゃないよ?」
「・・・・・・・・・・・・違うの?」
「うん」
「・・・・・・・・・・・・・・・じゃあ何で彼の食べたいものをことごとく作る訳?」
衝撃の事実に母がしばし呆然としながら尋ねる。
確か2・3ヶ月前に『鯖が食べたい』という手紙が来たとき、この娘は魚屋のおじさんに教えてもらって、綺麗に捌けるようにまでなったのだ。
それなのに、恋人じゃない?
「だってそれは日生が食べたいって言うから」
「でも、作ったってヒナセ君は食べられないじゃない」
「それでも将来的には食べるようになるし」
味噌汁をすすりながら、少女は何でもない事のように言ってのける。
将来的って・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
「・・・・・・・・・・・・付き合っては、いないのよね・・・?」
念を押すように尋ねると、娘はコクリと頷いて口を開いた。



「付き合ってはいないよ。プロポーズはされたけど」



何だそりゃ!!!?
思わず声に出てしまったのか、娘がキョトンとした顔で母を見る。
「・・・・・・・・・・・・プロポーズされたの?」
先ほどよりも強大な衝撃を受けた母親に娘はやはり頷いて。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・それで? 何て答えたの・・・?」
「日生がプロのサッカー選手になれたら、結婚してもいいよって」
ガクリ、と母が首を落とした。
少女は鮭の骨を上手く抜き取って、食べながら先を続ける。
「だって私、日生のこと割と好きだし。それに日生って野菜は全然ダメなのに、私が作った料理だと『おいしい』って言って残さず全部食べてくれるんだよ?」
シェフ冥利に尽きると思わない? と少女は笑って首を傾げた。
母親はガックリとうなだれる。
そして唐突に気づいてしまった。
恋人ではないがプロポーズという過程を経験してしまった不思議な関係を築いているこの二人。
確かに少年について話す少女はとても可愛らしくて、それなりに好意は抱いているのだろう。
そしてそれはきっと少年も同じ。
でなければ定期的に手紙など送らないだろうし、引っ越すたびに新転地の名産品なんて送ってはこないだろう。
本人たちは気づいていないようだが、経験者としては嫌でも気づいてしまった。
つまりこの二人は、初々しい恋愛期などとうに過ぎて、すでに熟年カップルのような関係なのだと。



彼の為の甲斐甲斐しい料理は、実は主婦業の一端だったのだと気づき、母は複雑な気分で鮭を口に運ぶ。
先に食べ終えた娘は二人分の緑茶を入れていて。
その横顔がいっぱしの主婦のように見え、母はついため息をついた。
「どうしたの? お母さん」
「いや、何でもないから・・・・・・・・・」
心配そうな顔の娘に笑って見せて。
母は心の奥底で思うのだった。
『この子、結婚するの早いかもしれない・・・・・・・・・』と。



料理上手の妻から夫は離れない。
そんな言葉が頭をよぎった。





2002年6月18日