ドクター・マルコーという人物を探しに、エルリック兄弟は東方司令部を後にした。
小さくなっていく後ろ姿を執務室の窓から見下ろして、リザは呟く。
「・・・・・・良かったんですか? エドワード君たちに教えなくて」
「何を?」
手元の書類にサインしながらロイが答える。
「イシュヴァールの内乱の際に軍を抜け出したのは、マルコーだけではないということをです」
リザの言葉に小さく笑い、目を伏せて柔らかく続ける。
「・・・・・・彼女のことか」
「気安く呼ばないで頂けますか?」
「それくらいはいいだろう? 彼女は私にとっても特別な人なのだから」
不愉快そうに眉を顰める部下の気配を感じながら、ロイはもう一度穏やかに笑う。
その眼差しが少しだけ祈るように細められて。
「・・・・・・・・・生きていて欲しいものだな」
「生きていますよ、絶対」
リザはハッキリと言い切って顔を上げた。
真っ青な空を睨みつけて、噛み締めるようにしてもう一度。



「――――――私の姉は、そう簡単に死ぬ人じゃありませんから」





涙とたたかい続けるあなたに今この愛がとどいたなら





今から13年前に東部で起こった、最悪の内乱。
イシュヴァール戦と呼ばれるそれに国家錬金術師が投入されたのは、争いが口火を切ってから6年後のことだった。
いつまでも終らない、犠牲者だけを増していく戦争に軍上層部が業を煮やしたと言える。
ロイ・マスタングは争いを終結させるために召集された国家錬金術師の一人だった。
当時、22歳。優秀な成績で士官学校を卒業し、セントラルで研修を積んでいる最中に『焔の錬金術師』として呼ばれた。
東部の僻地へと向かう凸凹の道を、何時間も車に揺られたのを覚えている。
車窓から見えるのはただ変わらない穏やかな景色だった。
人を殺しに行くのだということを、まだちゃんと理解していなかった。
呼ばれるままに参上する。そうしなくてはいけない身分だから。
「遠路ご苦労。国家錬金術師が全員到着し次第、前線に向かってもらうからそのつもりでいたまえ」
横柄に言われて、ロイは内心で眉を顰めた。それが雰囲気に出てしまう程に彼もまた若かった。
大柄な『鉄血の錬金術師』を前にして、それでも敬礼の形を取る。
「いつでも殺せる準備をしておけ」
その言葉には、さすがに表情を変えたけれども。



広がる大地と、そこに建設された簡易基地。
鼻につく鉄の匂いと、目に入ってくる赤い血。
「焔の錬金術師殿のテントはこちらになります」
案内されたのは基地の中ではかなり立派な、けれどやはり簡素な印象を否めないテントだった。
これも内乱が終るまで、とロイは自分に言い聞かせる。
ライフルを肩に提げた兵士がバインダーを差し出してくるのを、荷物を持っていない片手で受け取った。
「他に二名の国家錬金術師と同室して頂きます。窮屈でしょうが、どうかご辛抱下さい」
「いいさ、仕方が無い」
頭を下げて去って行く兵を見送ってから、ロイは鞄を持ちなおしてテントの入り口を押し上げた。
バインダーが布と擦れて音を立てる。
中はどうやらランプがついているようで明るさに満ちている。
その奥に人がいるのに気づき、相手を見とめてロイは目を見開いた。
ついさっき兵士の言っていた言葉が蘇る。



流れるような、金色の髪。
細くて、丸みを帯びているライン。
何も纏っていない上半身から覗く、白い肌。
女が振り返る。

その拍子に揺れた髪の合間から、背中に大きく刻まれた錬成陣が目に映った。



美人だ、と反射的に魅入ってしまったのは男の性か、ロイ自身の本性か。
ふくよかな胸の膨らみがこちらへと向ききってしまう前に慌ててテントを出る。
「・・・・・・っし、失礼!」
裏返ってしまった声にロイは自分でも恥ずかしくなって、次いでテントの内から聞こえてくるかすかな笑い声にさらに顔を赤くする。
ちゃんとした謝罪をせずに立ち去るわけにも行かず、どうしたものかと途方にくれること少し。
今度は内側からテントの入り口が押し上げられた。
現れた女性は今度はちゃんと服を着ていて、穏やかな笑みを浮かべている。
「あなたが、『焔』?」
一瞬何を言われたのか判らなくて戸惑うロイに、女はゆるやかに続ける。
「私は、・ホークアイ。『天殃の錬金術師』よ。・・・・・・よろしくね?」
微笑んだ顔はとても柔らかい。
戦場に居るべき人じゃない。ロイは一目見てそう思った。



天殃の錬金術師【てんおうのれんきんじゅし】――――――・ホークアイ。
彼女の錬金術は、“すべてを無に帰す”というものだった。
身体に刻まれた錬成陣をもってして、この世にあるものを無くしてしまう。
在るものを無くし、起こったものを無くす。
人も自然もすべて零へと戻してしまうその錬成を、異国の神話になぞらえて『天殃』という二つ名が与えられた。
『天の下す咎め』
それが、・ホークアイの力だった。



「焔のは、とても優しいのね」
そう言われたのは前線に出るようになってからしばらくの頃だった。
ようやく二つ名で呼ばれることにも慣れて来た頃。
ロイより三つ年上のは、最初に会ったときと変わらない顔で微笑む。
「だけどね、迷っては駄目」
銃を持つ手が、かすかに震えていた。
「守りたいものがあるなら、守らなくちゃ。望みがあるなら、叶えなくちゃ。自分の手が血に染まるのを恐れちゃいけない」
緩やかに流れる金色の髪は、きっと軍服じゃなくてドレスに映えるだろう。
そう思わせるだけの美しさと優しさがにはあった。
ロイを見つめて真摯に続ける彼女は、戦場に立つにはあまりに弱すぎて、強すぎる。
「殺すね、相手の目を見ては駄目。殺せなくなってしまうわ」
「・・・・・・・・・はい」
「だけど、忘れては駄目。殺した相手のことは覚えていなくちゃ」
震える指先から弾丸の替えが零れ落ちて、はそれを苦笑しながら拾い上げる。
今度はしっかりと銃身へと押しこんで。
「いつか復讐されたときに思い出せるように、覚えておかなくちゃ」
そう言って彼女は引き金を引く。
泣きそうな顔で、でも決して泣かずに。
何度も、何度も。
「・・・・・・覚えて、いなくちゃ」





「・・・・・・優しい」
呟いてロイは軽く頭を振る。
「いや、違うな。上手く言葉に出来ないが―――・・・・・・素晴らしい人だったよ、さんは」
「当たり前でしょう? 私の、自慢の姉なんですから」
誇らしく口角を上げるリザに、ロイも同じように微笑んで。
「中尉の写真を見せてもらったこともあった」
驚いて振り向く部下に、彼の人の面影を重ねてロイは続ける。
「今の君と同じように、『自慢の妹』だと言っていたよ」
とよく似た、それでいて少しだけ彼女よりも気の強そうな顔を歪めて、リザは手を握り締めた。





見せられた写真には、と、ロイよりも三・四歳年下らしい少女が写っていた。
仲良さそうに並んでいる姿は、彼女たちの顔立ちが似ていること以前に、二人が姉妹なのだと窺わせる。
「可愛いでしょ? リザっていうの」
次の殲滅地区の情報が乗っている紙を片手に、は姉の顔をして笑う。
「勉強も家事もできて、すごく良い子なの。美人だし器量は良いし、自慢の妹なのよ」
「そうですね。さんによく似ています」
「ふふ、ありがとう」
嬉しそうに頬を染めるを、ロイは可愛いと思った。
自分よりも年上の女性に可愛いというのは失礼かもしれないけれど。
だからなのか、次の言葉には少しだけ眉を顰めてしまって。
「どう? 恋人に」
「・・・・・・俺はどちらかといえば、さんの恋人になりたいですが」
「お世辞が上手いのね、焔のは」
可愛らしい様子で、年上の女の顔で、軍人の雰囲気で彼女は笑う。
「戦場には愛なんて不用でしょう?」
ロイは知らなかった。が妹と共に写っているその写真を握り締めて、毎夜涙を流していることを。
・・・・・・・・・気づけなかった。



錬成を行うたびに失っていくものがある。
引き金を引くたびに積み重なっていくものがある。
それらは決して止むことは無い。
一生ずっと、背中に背負う。
だからこそ、は自らの背中に錬成陣を彫った。

自分の犯した業を、決して忘れないように。





ロイは今でものことを思い出す。
きっと彼女がいなければ、自分はあの戦場で壊れていただろう。
リザは今でものことを忘れない。
きっと彼女がいなければ、自分は生きて来れなかった。
愛を教えてくれたのは他の誰でもない。
たった一人の、人。





“賢者の石”が戦争に使用されることが決まったのは、ロイにとっては突然のことだった。
およそ戦争には不向きな『結晶の錬金術師』であるティム・マルコーが基地に現れたときに、『鉄血の錬金術師』によって知らされたのである。
マルコー自身は嫌がったが“賢者の石”の使用は大総統命令でもあり、それに何より錬金術師たちが使いたがった。
戦争の早期終結を高らかに掲げながら、ただ破壊欲を満たすためだけに。
「・・・・・・・・・なんで」
小さく呟いたの声を、ロイは今でも覚えている。



始まったのは戦争なんかじゃない。
虐殺。その名に相応しいだけの行為をロイたち国家錬金術師は行った。
火じゃない、焔が人を襲う。
破壊じゃない、崩壊が街を殺す。
高らかに笑いながら、傲慢に笑みながら。
血に魅入られた錬金術師たちが、確かにいた。
こんなことしたくはない、と思う錬金術師たちも、確かにいた。
頬を流れる涙を、遠くの爆発の閃光が照らし出す。
「・・・・・・ごめんなさい・・・っ」
泣きながらは街を消した。
『天殃の錬金術師』として、無に帰した。



守りたいもののために、自らを血に濡らすと決めた。
今の自分をリザが見たら、きっと泣いて怒るだろう。
ただただ悲しみがの胸を支配する。
己の無力さを、痛いほどに感じていた。

神に咎められるべきは、自分たちのはずなのに。



カタン、という物音にロイはびくりと身を竦ませた。
顔を上げれば、入り口には自分と同じ青の軍服に身を包んだ影がいて。
「・・・・・・マルコーは出ていったのね」
呟くの顔が初めて会ったときよりずっとやつれていることに、ロイはようやく気づいた。
「・・・さん・・・・・・」
「追う気はないわ。それに、鉄血のに教える気もない」
暴力だけではなく、言葉や権力の争いを好まないらしいも、この内乱においては『鉄血の錬金術師』に対して遺憾を覚えているようだった。
決して口にすることはないけれど、不愉快よりも深い嫌悪感を示して彼女は彼らを見ている。
殺戮を楽しんでいる国家錬金術師たちを。
イシュヴァールの民からして見れば、きっと自分も同じなのだと判っていながら。
「泣かないで、焔の」
差し伸べる手も、差し伸べられる身体も、どちらも震えていた。
音を立てて銃がロイの手から落ちる。
床には、今殺したばかりの夫婦の死体。
何が怖いのか、何に謝りたいのか、何をどうすればいいのか、何をどうすればよかったのか。
一つも判らない。判ることが出来なかった。
「・・・・・・っ・・・どうして・・・・・・!」
縋るように抱き締めあった互いの身体だけが唯一だった。



・ホークアイが軍から姿を消したのは、それから二日後のことだった。





2004年1月21日