薄暗い廊下に浮かぶ、柔らかな茶色の髪。
耳にかかる長さのそれは、まるで雲のようにふんわりとしている。
かつて、伸ばせ、と言ったことがある。綺麗な髪なのだから、伸ばせ、と。
だけど笑って返された。
私よりも神田の方が綺麗だよ。だから、神田こそ伸ばして、と。
絹みたい。そう言って触れてくる手は気持ちが良かった。だからその手首を取り、唇を寄せた。
驚いたように瞬く目も髪と同じ茶色をしていて、もっと近くで見たいと思った。
不思議と拒まれることなど考えず、その腕に触れ、肩に触れ、頬に触れた。
前髪が交わるほどの距離で、茶の瞳に自分が映っているのを見て、初めて近づきすぎたと気づいて。
途端に大きくはねた心臓の音が、もしかしたら聞こえたのかもしれない。
間近で、華が咲いて。
次の瞬間、逆に柔らかな身体に抱きしめられた。



『神田、大好きよ』



耳元で囁く声は、この世で唯一つの大切なものだった。





LOVE PHANTOM





長さの変わっていない髪を、憎らしいと神田は思った。
それとは逆にずっと伸ばしてきた自分を、愚かだと思った。
だけど諦められなかった。日々が愛を憎しみに変えた。殺してやると、ずっと思ってきた。
自分のこの手で葬ってやる、と。
対AKUMA武器である『六幻』を抜刀し、構える。
すると寄りかかっていたドアから背を離し、短いスカートを翻してが正面に向き直る。
「待って、今日は戦いに来たわけじゃないの」
「・・・・・・そんな話を信じるかよ」
「信じてよ。私、神田に会いに来たんだから」
過去を消したいと強く思う。
不自然に早まる鼓動が、その産物だとするのなら。
「久しぶり、神田」
笑うとのすべてを、なかったことにしたい。
震える心に、強く強くそう思う。





彼女は光だった。
強さと目的に囚われ盲目になっていた自分に、一筋の希望を射してくれた光だった。
感謝している。好意が愛情に変わり、劣情を伴ったときも彼女は受け入れてくれた。
好きだと言ってくれた。こんな自分を、愛してるのだと言ってくれた。
愛しかった。幸せだった。こんな日々がずっと続いたらと思った。
だからこそ許せなかった。自分を捨ててAKUMA側へと走った彼女が。



そんな彼女を繋ぎとめることの出来なかった、自分自身が。





千年伯爵の仲間であるがどうやって教団本部に侵入を果たしたか、神田は聞かない。
自分よりも前から教団にいた彼女のことだから、きっと抜け道など熟知しているのだろう。
だがそれでも警備兵の失態に、小さく舌打ちする。
「眉間に皺が寄ってる。ダメだよ、癖になるから。せっかく綺麗な顔なのに」
が眉を顰めて言う。その様子はどこにも緊張など見られない。
まるで二年前に戻ったかのような錯覚に、神田はかすかな眩暈を覚えた。
だからこそ刀を握りこむ。
斬らなくてはいけない。疑うまでもなく、今は今なのだ。
過去には戻れないのだから。
「・・・・・・一人で来るとはいい度胸じゃねぇか」
「だってせっかく神田に会えるのに、誰にも邪魔されたくなかったから。久しぶりだね、元気だった?」
「今更てめぇと話すことなんかねぇ」
「うん、じゃあ一つだけ教えて」
耳に心地よい声が静かな回廊に反響する。
茶色の瞳はまっすぐに合わされていて、その目は今にも泣き出しそうで。
動揺、する。
泣くな、と神田が反射的に口を開きかけた瞬間、小さな声が響いた。



「・・・・・・神田の身体は、いつまで保ちそう?」



それは何度目のときだったか覚えていないけれど。
肌を重ねた後、神田の腹に巻かれた包帯を撫でてがぽつりと漏らしたことがあった。
『神田の身体は、いつまで保つのかな』――――――と。



それはエクソシストたちが千年伯爵と相対する、少しだけ前の話だった。





好き。大好き。愛してるよ。だから。
黙って見送ることなんか出来ない。幸せを望む。ずっと一生。
あなたの傍にいたいと思う。一生一緒、ずっと一緒に。



あなたと共に生きていきたい。
そのためなら何だってする。
AKUMAにだってなってやる。





私の願いはたった一つ。
あなたと永久を生きていくこと。





言葉を失った神田を見つめ、は微笑む。
それは穏やかな優しさと毒のような狂気を孕んでいて、それ故に凄惨なほど美しいものだった。
強すぎた想いが女を蝕む。狂い堕ちていく、どこまでも深く。
つい、と伸ばされた手が近づいてくるのを、まるで何かに縛られるように神田は身動ぎ出来ずただ見つめた。
頬に触れる指先は冷たく、だからこそ熱を持つ。
「私、思うの。大好きな人とずっと一緒にいられたら、すごくすごく幸せじゃない?」
ラインをなぞり、唇を吊り上げる。
二年前は大してなかった身長差が、今は見上げるほどになっている。
押し付けられる体はひどく柔らかく神田の胸に吸い付いた。
「私は神田が好きだから、一緒にいたいの。ずーっと一緒にいて、笑い合って、キスして、抱き合って。ほら、絶対幸せ」
背中に腕を回し、肩口に頬を摺り寄せる。
抱きついてくるを、何故か引き離せない。
「だからそのためにね、神田には死んでもらわなきゃいけないの。そうしたら私がAKUMAにしてあげるから」
顔を上げて微笑む。
「ずっとずっと一緒だよ。一生二人で生きていくの」
両頬に手を添えられ、ゆっくりと引き寄せられて。
「神田もそれを望んでくれるよね?」



紅い唇が近づく。
囚われたままの身体は言う事を聞かない。
ただ開いた目に、神田はを映していた。
笑んで口付けようとする相手を。
『大好きよ』
笑うの顔が浮かぶ。
それは、二年前のものだった。



「神田、大好きよ」



そう、自分は確かに彼女を愛している。
二年前も。



そして今も、尚。



視界の端で煌めいた何かを知覚した瞬間、は跳躍して神田から離れた。
逃げ切れなかった髪が数本、『六幻』によって切り取られ床に散らばる。
の肩にかかっていたショールがふんわりと風に舞い、二人の間を遮るように落ちた。
刀を構えている神田を見つめ、は悲しそうに眉を下げる。
「俺は絶対にAKUMAになんかならねぇ」
睨むように、決して目を逸らさずに、神田は告げる。
「この身体がぶっ壊れるよりも先に、俺がてめぇを殺してやる」
「・・・・・・私がAKUMAになるの?」
「させねぇよ。俺はおまえをAKUMAになんかしねぇ」
自分をAKUMAにして一生を共に過ごすのがの愛だとするのなら。
彼女を殺してその業を背負いながら一生を終えるのが自分の愛だ。
形は違うけれど、想いは同じ。
ただ互いに、深入りをし過ぎてしまった。



愛しすぎて、互いが見えなかった。



「・・・・・・・・・神田なんてキライ」
少しだけ乱暴に開けられた窓から入る風が、小さな呟きを運ぶ。
その力のなさに神田は思わず失笑した。
昔にも同じようなことを言われたのを思い出したからだ。
あの時は些細な言い合いをして、お互いの意見が譲れないものだと判って、がキライだと言って。
そして。



月光の窓辺に手をかけて、が笑う。
昔と同じ顔で、そして艶のある女の顔で。
――――――神田の心を奪って止まない笑顔で。





「だけど、大好き!」





窓枠から身を投げる。
神田が駆け寄って乗り出せば、こちらを向いたまま落下していくが見える。
茶色の髪が風を受けて乱れて、一瞬後にパッと傘が開いた。
どこに持っていたのだろうそれは、千年伯爵が持っているのと同じもの。
真っ黒のそれを広げてふわふわと浮きながら、がこちらを見上げている。
明るさだけを映した満面の笑みで。
「神田が死んだら私、絶対にAKUMAにするからね!」
「俺は次に会ったら絶対におまえを殺してやる!」
「じゃあどっちの想いが強いか勝負!」
声を張り上げる様子はまるで子供のようで、純粋が故に限りなく強い。
無邪気に愛を語り、無垢に殺意を告げる。
その笑顔が愛しくて悲しくて、神田の顔がきつく歪んだ。
「―――てめぇなんか!」
どんどんと小さくなっていく姿に、訴えるように強く。
届かなくなる彼女に、叫ぶように苦しく。
きつくきつく両の手を握り締めて、神田は吐き捨てた。
「てめぇなんか・・・・・・っ」



駆け巡る思い出の記憶。
満たされていた心。囁いた愛の言葉。
あの日々は今も美しい。
忘れられない。



決して捨てることなど出来ない、気持ちがここに。



「・・・馬鹿野郎・・・・・・っ!」
罵りは悲痛な苦しみを帯びていた。
神田の拳が窓枠を殴りつけ、鈍い音を響かせる。
それすらももう、届かない。
彼女は愛に堕ちてしまった。



願いが叶うなら、どうか愚者に制裁を。
愛に狂った怪人に、救いの手を。
今だけは救済者になりたいと願う。



歪んでしまった彼女を、救えるだけの救済者に。



この一言で彼女を取り戻せるというのなら。



「・・・・・・・・・・・・・・・っ!」
捨て置かれた黒いショールを握り締め、神田はきつく目を閉じた。



愛はまだ、終わらない。





2005年2月11日