『神田』
名を呼ばれて、振り向こうと思ったのはあいつに対してだけだった。
振り向けば笑顔が見れること知り、いつの日か気配だけでも後ろを振り返るようになった。
驚いたように目を瞬いて、次の瞬間には満面の笑みを浮かべる。
死と隣り合わせの仕事についているとは思えない明るいその顔は、見る度に心が癒されていくのを感じていた。
名を呼べば嬉しそうに笑うことを知り、いつの日か後ろ姿を見かければ声をかけるようになった。
『・・・・・・
振り向いて嬉しそうに笑う、その顔を見るのが好きだった。



――――――ダンッ
壁を殴りつけた音が、回廊に響く。
奥歯を噛み締めて、神田はもう一度拳を叩き付けた。



「ふざけんじゃねぇ・・・・・・っ!」





LOVE PHANTOM





こぽこぽ、とカップに注がれる紅茶の音が優しく聞こえた。
リナリーは一つをアレンに手渡し、もう一つを自分の膝の上で抱える。
唇を開いては躊躇い、かすかに肩を震わせて、そしてようやく呟いた。
「・・・・・・はね、二年前まで教団にいたの」
アレンが顔を上げる。
「私より二つ年上で、私がエクソシストになるよりも前から、は本部にいたの」
初めて会ったときのことは、今でも覚えている。
兄の後ろに隠れていた自分と目線を合わすようにしゃがんで、太陽みたいに明るい笑顔を浮かべてくれた。
『はじめまして、リナリー。私は
差し出された手は細くて奇麗で、とてもじゃないけどエクソシストには見えなかった。
たった二つ年が違うだけなのに、彼女はとても大人びて見えて、けれどとても可愛らしい人だった。
「対AKUMA武器を完璧に使いこなす、一流のエクソシスト。小さい頃からは強くて明るくて―――私の、憧れだった」
そう漏らして、リナリーは面を伏せる。
アレンはかける言葉に戸惑ったが、リナリーは俯いたまま、少しして溜息を漏らした。
手の中にあるカップをきつく握り締めて、懺悔するように。
「・・・・・・・・・違うの、本当は」
搾り出すように、震える声で。

は今でも・・・・・・・・・私の、憧れなの・・・・・・」



『リナリー』
明るい声で名を呼ばれるのが好きだった。
手を引かれて教団本部内を歩くのが好きだった。
泣きそうなときや悲しいとき、傍にいてくれる優しさが好きだった。
『AKUMAに逃げられちゃったの? 大丈夫だよ、次はちゃんと倒せるよ』
頭を撫でてもらうと胸の中に巣食っていた不安や心配事が、みんなどこかに消えて無くなってしまうみたいだった。
『修練場に行こう? リナリーの対AKUMA武器が使いこなせるようになるまで、付き合うから』
茶色の髪と目はどこにいても見分けがつく、優しい色をしていた。
年を重ねるにつれて丸みを帯びていく身体は美しいラインを持っていて、同性ながらに見惚れたりした。
隣にいるだけで前向きになれる、そんな雰囲気の人だった。
『リナリー』
周囲を明るくさせる彼女は、姉だった。母だった。

リナリーの、憧れの人だった。



すん、と鼻をすするリナリーを前に、アレンは困惑していた。
数日前に出会った。エクソシストの服を身にまとったAKUMA側の人間。
だけど、その笑顔はリナリーの言うとおり温かかった。
神田に対して想いを述べる彼女の表情に、嘘は欠片も見られなかった。
「・・・・・・二年前にね、エクソシストが千年伯爵と直接相対したことがあったの」
ぽつりぽつりと、リナリーは続ける。
「その時はまだ準備が万端じゃなくて、神田や私も戦いに出たけどAKUMAの数に押されて勝ちには至らなかった。だけど千年伯爵の方もまだそんなに態勢が整ってなかったみたいで、互いに引くような形になった、そのときに―――・・・・・・」





『私を連れていって』
対AKUMA武器をすでに収めた右手を、まっすぐに宙へ向けて彼女は言った。
『私を連れていって、千年伯爵。私をあなたの傍において』
傘で浮いている千年伯爵を見上げる横顔は、いつもと変わらない綺麗なものだった。
だからこそ判らなかった。この人は何を言っているのか。
イノセンスに選ばれた使徒でありながら、何を。
『・・・・・・?』
誰かの呼びかけも、無視をして。
『お願い。私、AKUMAが欲しいの』
まっすぐに千年伯爵を見上げる、その瞳は透明だった。
硬い意志を宿しているそれは、今は一つのものしか映していない。
宙に浮いている千年伯爵を。
その向こうにある、彼女の願いを。
――――――・・・・・・っ!』
神田の声すら、もう届かない。



『私にAKUMAを作る力を頂戴』





いつからだったのだろう。
リナリーは愕然とした。
千年伯爵と共に消えていくの笑みは、リナリーの見たことないものだった。
いつから彼女は、あんな顔を浮かべるようになっていたのだろう。



あんな、狂気に冒された笑顔を。





どうして止められなかったんだろう。
彼女がAKUMAを望むほど、追い詰められていたなんて知らなかった。
気づけなかった。いつも明るい人だったから。
笑みの奥にある悲しみに、気づけなかった。
後悔が胸に突き刺さり、今も抜けない。





きっとずっと、抜けない。





自ら千年伯爵の側についたエクソシスト。
アレンにとってその話は到底信じられないものだった。
じゃあ、数日前に会ったが、AKUMAを殺したのは何でだったのだろう。
まさか、自分を欺くため?
騙して、影で笑っていたのだろうか。何て愚かな子供だと。
アレンは左手を握り締め、けれど心とは違う言葉を口にした。
「神田とは・・・・・・恋人同士だったんですか?」
そんなことは彼女が笑って告げたときから判ってはいたけれど、先ほどの神田の過剰な怒りで判ってはいたけれど。
それでもアレンは聞かずにはいられなかった。
リナリーは頷く。
「神田は初めて本部に来たときから愛想が悪かったけど、でもそれもと一緒にいるようになって随分変わったんだよ? 話しかけても無視しなくなったし、誰彼構わず斬りかかることもなくなったし」
思わず聞き返したかったが、アレンはどうにかそれを堪えた。
「何より、といるときはすごく優しい表情を浮かべてた。も神田に向ける笑顔は特別で、教団にいる人はみんな、形はどうあれ二人の仲を認めてたもの」
「そう、なんだ・・・・・・」
「私も二人が好きだったよ。いつか好きな人が出来たら、神田とみたいに互いに大切にし合える関係になれたらって思う」
理想なの、と小さく笑うリナリーの言葉は、いつの間にかまた現在形になっていた。
彼女の中のという存在はそれほど根強くて、忘れられないものなのだろう。
アレンはそう思い、かすかに微笑む。
擦れ違う一瞬で、騙されたのかもしれないけれど、それでも確かに自分に向けられた笑顔は優しかった。
「・・・・・・がいなくなってからの神田は、見ていられなかった。自分がの苦しみに気づけなかったことを、すごく悔やんでるみたいで・・・・・・任務をいくつも受けては、必死でを探していたみたい」
だけど結局見つけられなくて、神田の彼女への想いはだんだんと憎しみへと変わっていったのだと、リナリーは言った。
どんな気持ちだったのだろう。突然の裏切りに、神田が傷つかなかったわけがない。
愛しさと信じたい気持ちと、後悔と悲しみと苦しさが一緒になって。
それを考えると、無垢な顔で想いを語ったが憎らしくさえ感じ、アレンは思わず眉間に皺を刻んだ。
だけど、ふと気づき顔を上げる。
一番大切なことをリナリーは語っていないからだ。
「・・・・・・聞いてもいいですか?」
小首を傾げるリナリーに、アレンは口を開く。



「何では、AKUMA側に与したんですか?」





二年前、の部屋は神田の部屋の隣だった。
もしかしたら、扱いにくい自分をに近づけさせることによって変えさせたかったのかもしれない。
コムイや当時の事務職員を思い浮かべれば、あながちその考えは間違っていないだろうと神田は思う。
だけど結果は、彼らの思い通りにはいかなかった。
確かに自分はと触れ合うことで変わったけれども、今ではそのことを悔いている。
出会わなければ良かった。あんな女と。
階段を上りながら、神田は先ほど見たスクリーンを思い出す。
二年ぶりに見た相手は、記憶の中の彼女よりも成長し、断然綺麗になっていた。
もはや少女ではなく、一人の女。
そう思ってしまった自分を戒めるべく、きつく『六幻』を握り廊下を進む。
この階の最奥から二番目が、神田の部屋だ。
任務から帰って来ると、よく扉の前でが待っていた。
『おかえり』と言って笑う様子に、疲れがいつもどこかに飛んでいくのを感じた。
そう、それはこんな風に。



「おかえり、神田」



スクリーンの中と同じ、女の顔でが笑う。
ざわりと心が震えた自分を、神田はたまらなく憎悪した。





2004年12月21日