『戦乱の娘』のその後、織田信長を倒しました編。相も変わらず見事な捏造が満載です。ここでは元就様の支配する中国地方=安芸と全般的に指しております。他の地理などの詳細に関しましてはどうかスルーしてやってくださいませ・・・。





尾張の織田信長が討たれた。明智光秀の謀反に乗る形となり、濃姫やお市が身内の手によって葬られたという一面は確かにあったが、それでも伊達政宗と真田幸村が信長を討ったのは事実だ。伊達・武田・上杉をはじめとする東軍と織田の家臣だった前田、毛利と長曾我部が四方から安土城を囲み、落とした。魔王の脅威は去った。残されたのは主なき土地と多くの民。それらをならすことから戦後処理は始まる。実際には、それこそが国主たる彼らの仕事だった。
「お話中、失礼いたします」
安土城から最も近い加賀の前田利家の屋敷にて、この度の戦に関わった主な面々は集っていた。名と噂は知れど初対面同士の者が多く、まずは自己紹介からと一通り全員が名乗ったところで障子の向こうから声がかかった。若い女のそれは女中のものらしく、利家の背後に座していた妻のまつが立ち上がるが、それよりも先に武将のひとりが口を開いた。
「何の用ぞ」
「国元の小早川殿より伝達が届きました」
「大友が動いたか」
「数は三千。すでに第一陣が長州に上陸したとのことです」
「我が居らねば安芸を落とせると思うたか。愚かな。片腹痛いわ」
立ち上がる拍子に音もなく若草色の袖口が揺れる。場に断りを入れるでもなく室内を闊歩し、元就はまつよりも先に障子を開け放った。板張りの、塵ひとつない掃除の行き届いた廊下にひとりの女が正座している。彼女は伏していた頭を上げ、主である元就を見つめた。車座の中から元親が声を投げかける。
「やっぱり九州が出てきたな。俺んとこはどうだ?」
「報告には安芸のみ、と」
「はっ! 今回は俺の運が勝ったみてぇだな?」
「黙れ、この姫若子が」
「ちょ・・・! も、毛利てめぇ!」
思いも寄らぬ反撃に、元親がついていた肘から顎を滑らせた。背後のそんな喧騒も、他の武将の戸惑いもすべて無視をし、元就は足元の女だけを見据える。
「我は安芸に帰り、大友を迎え撃つ」
「はい」
「この場における全権を貴様に預ける。十分な戦果を得ねば安芸の地は踏めぬと思え」
「畏まりました。どうか、ご武運を」
「誰に言っている?」
背を向けているため元就の表情は見えなかったが、それでも変化はあったのだろう。声音は嘲笑を帯びていたけれども、座している女はそっと控えめに笑み、再度頭を下げて元就を見送った。足音と気配が消えてゆき、主がいなくなってようやく女は室内に向き直る。石庭から差し込む日差しに、安芸を象徴すると言っても過言ではない若草色の着物が煌めいた。深く頭を下げてから、女は敷居を跨いでやってくる。





戦乱の娘(安土崩落)





元就の座っていた場所まで来ると、女は座布団を脇に避け、直に畳へと腰を下ろした。所作はとても丁寧だが、それにしては控えめな印象を受ける。女性という存在そのものに緊張を帯びたのは幸村で、己の城の女中を思い出したのは政宗だった。女は車座を組んでいるひとりひとりをゆっくりと見回してから、深く叩頭する。
「安芸が国主、毛利元就様より名代を仕りました、と申します。皆々様と場を同じくするなど非礼にも当たるかと存じますが、どうか今少しのご容赦をいただけましたなら幸いです」
「ええと、そなたは?」
「わたくしは元就様が側付き、筆頭女中に御座います」
「毛利は女中に全権を与えんのか」
「おっと、独眼竜! その言葉はいただけねぇなぁ」
場の提供者として尋ねた利家に、女、はしっかりと返答する。からかうように投げかけたのは政宗で、明るく庇い出たのは慶次だ。彼は友人である上杉謙信の名代としてこの場に参上していた。武田からは幸村が来ている。政宗の背後には小十郎が控えているが、佐助の姿は見えない。織田を落とした主だった武将はすべて終結していた。利家の隣に座っていた慶次は座布団を引き摺っての傍に移動してくる。元親と挟まれれば、彼女の身体が更に小さく見えるようだった。
はこう見えても毛利の懐刀だぜ? 今回の織田包囲網に参加するよう毛利を説得してくれたのだって、このだ。可愛い外見に騙されちゃいけねぇよ」
「Just kidding. 女中だろうがなんだろうが構いやしねぇよ。さっさと始めろ」
「む。それではまず、土地の分配からだなぁ」
利家が巻物を広げるが、こういった手合いは苦手なのだろう。すぐに眉間に皺を寄せ始めた夫に代わり、まつがずいと前に出てきた。
「織田の領地であったのは、今川の駿河と徳川の三河、浅井の近江と明智の山崎、そして尾張にございまする」
「九州も信長様の土地ではあったが、あれはなぁ」
「あそこは今は化生の地だぜ。魔王は島津とザビーを殺すだけ殺して後のことは放りっぱなしだったからな。馬鹿みてぇな数の勢力が小競り合いを繰り返してる」
「長曾我部殿と毛利殿は九州をお望みか?」
「あぁ? そうだな・・・」
顎を撫でて考える振りをしながら、元親はちらりと隣のを垣間見る。車座の中で格段に小さな背をそれでもまっすぐに伸ばし、手のひらは膝の上で軽く重ねられている。その指先は少しのささくれも見られ、彼女が確かに女中であることを示していた。
「安芸は、如何なる領土も望みません」
視線がすべて集中した。控えめには微笑む。
「安芸は如何なる領土も望みません。代わりに、誓いをいただきたく思います」
「誓い?」
「はい。今後、皆様の領地で生きられる民、作られる物、成される事、それらすべてにおいて安芸へ干渉しないとお約束ください。安芸で生きる民、作る物、成る事、それらすべてに対し干渉しないとお約束ください」
それだけで結構です。新たな領土はいりません。静かに告げられた言葉に一番先に反応したのは幸村だった。拳を握り、感極まったように声を震わす。
「なるほど、同盟に御座いますな! それならば武田とて望むところ。永久の誓いを交わしましょうぞ!」
「Shut up! 黙りな、真田幸村! ・・・・・・この女、今とんでもねぇことを言いやがった」
「政宗殿?」
きょとんと首を傾げる幸村とは正反対に、政宗は隻眼を険しくさせて対面のを睨みつける。迫力にか少しだけ傾げられた小首に、彼は忌々しげに舌打ちした。
「この女は『天下統一』を諦めろって言いやがったんだよ。安芸に不可侵の同盟を組むってことは、そういうことだ」
「・・・っ」
「へぇ。気づくとは独眼竜も勢いだけの餓鬼じゃねえんだな」
元親がにやりと口端を吊り上げ、足を崩して片膝を立てた。あからさまな揶揄に政宗は目を細める。場が緊張感を帯び、慶次がやれやれと声には出さずに頭を掻いた。幸村はただ政宗とを見比べており、困惑を載せたその瞳と視線が合って、はそっと微笑を返す。
「『何人たりとも安芸に干渉してくるな、安芸の何人たりともに干渉するな』ってのは、それすなわち国土を侵すな、兵を向けるな、上洛しても安芸だけには関与するなってことだ。そんなもんは天下統一なんて言わねぇ。女、てめぇの言い分を通すわけにはいかねぇな」
「そのお言葉は、伊達はいずれ安芸へ侵攻するという宣言と受け取ってもよろしいのでしょうか?」
「好きにしろ。てめぇごときに奥州は止められねぇよ」
政宗の小さな睥睨に気づいていないわけでもなかろうに、は言葉を返すでもなく浅く頷くだけに留めた。身長差だけではない見下しが両者の間に起きており、元親が鼻白んで舌打ちする。
「・・・・・・上洛は、お館様の夢。天下には安芸も含まれるため、もしそなたの申す同盟が政宗殿の言う通りなら、某もその誓いを交わすことは出来ぬ」
「甲斐もいずれ、安芸へ侵攻されるのですね」
「そうは申さん! 戦いが避けられるのならば、いくらでも避けましょうぞ。話し合いで解決するのなら」
「話し合いで、あの毛利がおとなしく安芸を譲ると思うのか? そりゃあいつの大好きな日輪が散ってもありえねぇだろ」
幸村が真摯に握り締めた拳を、元親が一笑に付した。確かに、つい先ほど初めてまみえ、そして挨拶らしい挨拶すら交わさずに己が領地へ戻っていった元就は、幸村からしても気難しそうな性質に見えた。政宗の剛毅とも、元親の豪快とも異なる、あえて言うならば沈毅であるのだろう。元就を動かすことは難しい。それでも、お館様ならば。
「不思議ですね。どうして皆様、ご自身の方が元就様よりも上手く安芸を治めることが出来るとお思いになられるのでしょう」
幸村の思考を、の声が断ち切った。心底不思議に思っているのか、微かに首を傾げた拍子に、纏められている髪で簪が揺れる。まるで日輪を模したかのような、鮮やかな玉がひとつだけついている簡素な簪だった。
「安芸は毛利の地。元就様より上手く治められる方が在るなど、わたくしには到底思えません」
「Hey girl. それは俺たちに対する挑戦か?」
「滅相も御座いません。ですが、土地には土地のやり方というものが存在することも、皆様ならばご存知でしょう? 安芸には安芸の、元就様のやり方が御座います。それを奪い、新たなる手法を民に強いるのは無体としか思えません」
「毛利殿は、兵を駒のように扱うと聞いているでござる」
「それでも元就様は、安芸を慈しんでくださいます。あの方はいざとなれば、天下よりもご自身の身よりも、安芸を取って下さいます。ですからこそわたくしたち民は、元就様についてまいるのです。その件に関しては、前田様にもご同意いただけるのではないでしょうか?」
「某?」
急に話を振られて驚いたのか、利家は自身を指差して目を瞬いた。彼の後ろに戻っていたまつと顔を見合わせ、心当たりがないといったように首を傾げる。の声は最初から変わらず、常に穏やかで控えめに、けれどしっかりと主張を繰り返す。
「織田信長公は、武人としては残酷非道であらせられましたが、領主としては優れた方でいらっしゃいました」
利家の肩が震えた。織田包囲網に加わったとはいえ、慕い、付き従っていた君主の名に心が怯む。犬千代様、とまつが心配げに夫を支えた。
「前田家の皆様は家臣であられたのですからご存知でしょう。伊達様、真田様は、信長公の治められていた尾張をご覧になられたことは御座いますか?」
「・・・・・・No」
「ないで、ござる」
「信長公は、戦の関わらない点においては素晴らしい執政者としか言いようがありませんでした。市に戒律を敷き、検地を徹底し、新しい文化や考え方を取り入れては尾張に合うよう作り変えていく。その手腕は見事なもので、元就様とてお認めになられておりました。だからこそ尾張の民は、信長公の戦の招集にも応えたのです。信長公は尾張を富ませる、確かな国主であらせられましたから」
「魔王を討ったのは間違いだったって言いてぇのか」
「信長公の恩恵を賜っていた民からしてみれば、非難されて然るべきやもしれません。ですが、皆様はご自身のお考えが正しいとお思いになられたからこそ、信長公をお討ちになったのでしょう? そうならば恥じることはないのではありませんか」
にこ、とは微笑んだ。それは不思議なことに策謀を感じさせない、彼女が本心からそう思っていることを示す類のものだった。
「土地にはその土地のやり方、考え方が御座います。外から見ているだけでは分からないことも、確かに存在するのです。安芸の国主は、毛利元就様。わたくしたち民は元就様のものであり、そして安芸のものに御座います。内から見れば、介入してくる外のものこそが悪。皆様がご自身を正しいとお思いになられても、立つ場所が違えば見るものも、抱く心も変わります。ですからこそ申し上げているのです。安芸の国主に相応しい方は、毛利元就様より他にないと」
淡々と、穏やかに、それこそ柔らかく語られてはいたが、内容は鮮烈と称しても可笑しくのないものだった。幸村が言葉を失って立ち竦む。政宗とて目を見張り、得体の知れないものを見る目で目の前の女中を凝視していた。
利家がぐすりと鼻を啜る。信長様、と掠れた声が主の名を呼んだ。最後の最後で従えなかったけれども、それでも利家にとって信長は主君だったのだ。誇り、憧れていた。認められ、加賀の地を与えられたことが嬉しかった。非道とされ、魔王と呼ばれて他からは蔑まれてもいたけれど、それでも、それでも。こうして認められると、やはり嬉しくて堪らない。唯一の主君であった。
「元就様はそれを理解されておられるからこそ、他国へ侵攻することは御座いません。戦を起こすとしても、それは他国の侵略から安芸を守るためのもの。なればこそ皆様にもお願い申し上げているのです。どうか安芸に侵攻などなさらないでくださいませ、と」
「その点に関しちゃ四国も同意見だ。俺ぁ俺の海を汚す野郎は許さねぇ。けどな、わざわざ自分から戦を仕掛けるほど落ちぶちゃいねぇよ。てめぇらが関わってこねぇなら、こっちだっておとなしくしててやるぜ? 悪くねぇ話だと思うけどな」
「・・・てめぇらが仕掛けてこねぇって保証はねぇ」
「その信頼は、安芸以外の如何な領地も望まないという姿勢を貫くことで認めていただくしか御座いません。伊達様はおそらくこの度の戦果として、かつて北条公の領地であった小田原を望まれるのでしょう? 現在は信玄公の領地になっておりますが、今川公の駿河を望めば小田原と甲斐に挟まれてしまいますので、ならばと小田原と駿河の交換をお求めになられるではありませんか?」
つい、との指先が広げられたままの巻物に伸ばされる。同じ側に立ち位置を得ているからか、元親が気軽に覗き込んだ。慶次は小さく「相変わらずだなぁ」と呟いてから、反対側から身を乗り出す。
「三河の徳川公は織田包囲網に参加されたとはいえ、それは信玄公への信頼によるものが大きかったと思われます。主君亡き三河は、やはり同盟を頼って武田に支配されたがるでしょう。ならば三河は、甲斐の虎のもの。そうすると尚更囲まれる形となりますので、伊達様には駿河よりも小田原かと」
桜色の爪先が、三河を丸で囲み、甲斐と結び合わせる。指先は次いで山崎へと移動した。
「明智光秀公の領地、山崎は、越後と近しいため謙信公が治めるのがよろしいかと存じます。彼の土地は光秀公の気質のせいか独特の風土を有していますが、謙信公ならば抑えることも可能でしょう。正反対の性質が逆に上手く働くのでは」
「なるほど。越後にとっちゃ悪くない話だ」
謙信もそれでいいって言うと思うぜ、と慶次が頷いた。尾張を示す指先に、もはや室内のすべての視線が注がれている。
「尾張と近江は前田様が治められるのが良いでしょう。前田様は信長公の家臣だったことも手伝い、用いる政策の多くが信長公を踏襲していらっしゃいます。それなら民の反発も少なく、速やかに移行することも出来るのではないかと」
「・・・かたじけない。尾張は必ず、某とまつが治めてみせる」
「ありがとうございます。皆様のご慈悲に、まつめは感謝いたしまする」
手を取り合って、前田夫妻が頭を下げる。額が畳みにつきそうなそれは、確かな深い感謝だった。利家の顔には固い決意が浮かべられており、慶次が我がことのように嬉しそうに笑う。
「んじゃ、残りは九州だな。安芸はともかく、どうする? 長曾我部の旦那、いるかい?」
「あー・・・いや、いらねぇわ。さっきも言ったが九州は今や雑魚の小競り合いばっかだからな。平定するにゃ労力が惜しいし、どうせそのうち島津の残党かザビーが返り咲くだろ」
「ならば、大阪はどうだ!? あそこは小さいが活気もあって良い町だ。長曾我部殿も本州に領土があった方がいいだろう?」
利家が是非に、と言い募ると元親は頭を掻いて唸った。大阪なぁ、と呟いて、隣の小さな肩を見下ろす。どう思う? 問われて顔を上げ、彼女は少しも迷うことなく元親に応えた。
「避けられる火の粉をわざわざ被る必要はないかと」
「だな。せっかくだけど断るぜ。今回の戦で散財した分の金さえ戻してもらえりゃ、俺は他に望まねぇよ」
あっさりと元親は権利を放棄した。利家はなおも渋ったが、潔い答えに逆に丸め込まれたのだろう。幸村は未だ言葉もなく場を見守るだけで、政宗が隻眼を眇めてと元親を見据えていた。流されたが、今の短いやり取りには彼らのみに通じる情報が盛り込まれていたはずだ。避けられる火の粉が大阪にあるというのか。それは一体何か。奴らは何を知り、何から手を引いた。じっと見透かそうとしても、は眼差しを地図に注いで瞼を伏せているし、元親は欠伸を噛み殺して微細な素振りなど垣間見せない。
これが西か。己の知らない、日ノ本の半分。得体の知れなさに政宗は唇を吊り上げた。怪しいのなら、その身を暴いてしまえばいい。竜の血が獰猛に牙を剥く。
「女」
「はい」
「てめぇ何者だ? ここまで政治に精通してて、ただの女中はありえねぇだろ。正体を明かしな。俺は何処の誰とも知れない輩と同盟を結ぶ気はねぇぜ?」
言葉がそれこそ政宗の六爪のように、室内に緊迫を張り巡らせる。刀を首に突きつけられたに等しいは、静かに顔を上げて相対する彼を見た。表情に脅えはない。それでも、政宗と張り合うだけの覇気も見えない。普通の女子だ。ただの、普通の。
「わたくしは、一介の女中に御座います。元就様付きの、安芸に生まれ育った女です」
ですが、と唇が動く。紅も注していない。着物には柄もなく、髪も簪で纏めただけの、地味な装いだ。それでも目が離せないのはどうしてか。殿。幸村が初めて彼女の名を呼んだ。途方に暮れた子供のような、情けない声だった。
「ですが、与えられた名ならば御座います。わたくしの名は、宇喜多。宇喜多直家が長女。それがわたくしに与えられました、自身を証明する名前です」
がちゃん、と茶碗の割れる音と落ちてきた影が両者の間に割り込んだのは、果たしてどちらが先だったのか。様々な緑を混ぜたかのような色彩がの眼前に迫り込み、首を狙った鋭い切っ先は横から伸びてきた手が掴み止め、逆からは細い身体が抱き寄せられる。危ないねぇ、と慶次がいささか挑発を帯びて笑った。
「旦那、三歩下がって」
「さす、け?」
「いいから俺様の言う通りにして。それとこれから先、出されたものは俺様の許可なく食べないで、触らないで」
「What? どういうことだ、猿」
屋根裏から降り立った佐助は、慶次から視線を逸らさずに主である幸村へと告げる。否、彼の眼差しはくないを握り締めて止めた慶次ではなく、その背後、元親に抱えられるようにして庇われているへと向けられていた。訳が分からず、それでも部下への信頼が幸村に畳を三歩下がらせる。ずっと黙って成り行きを見守っていた小十郎も、流石に政宗を守るように半身を乗り出していた。
は毛利の名代だ。そのに武器を向けるってことは、毛利に、安芸に戦を仕掛けるってのと同じだぜ? 分かっててやってんのかい、忍びの兄さん」
「黙りなよ、前田の風来坊。宇喜多がどういうものか分かってて相席させてるあんたたちの気が知れないね」
「宇喜多とは、まさか、あの・・・?」
「まさかって何だ。説明しろ」
蚊帳の外を感じた政宗が投げかければ、目を見張っていたまつが少し惑ってから口を開く。利家はやはり驚いているようではあったけれども、その身体に警戒を浮かばせてはいなかった。くないで真っ二つにされた幸村の茶碗に、まつの茶が、と嘆いている。
「・・・宇喜多とは、西では有名な悪名にございまする。暗殺を得意とし、謀殺した大名は数知れず。銃と毒による下手が最も多く、『戦国の梟雄』と申せば、西では松永久秀よりも先に挙がる名が宇喜多にございまする」
「松永だと?」
明確な比較対象が、特に己も煮え湯を飲まされた存在の名が出たことで正しく認識したのだろう。小十郎が表情を恐持てに変えて、まるで久秀自身を憎むかのようにに鋭い眼差しを向ける。政宗はふぅんと呟いただけだったが、元親の腕の中より抜け出した本人が否を唱えた。
「確かに当代宇喜多の当主、我が父である直家は暗殺に秀でております。けれど、宇喜多は血ではなく能力で繋がる一族。わたくしは恐れ多くも『読み』を認められ、宇喜多の名を賜りました。ですから、わたくしに父のような暗殺の才は御座いません。戦うことも、采配を揮うことも出来ません。わたくしに出来るのはただ、政局を読むことのみ」
「それを信じろって? まったく宇喜多がよく言うよ」
「父のことを鑑みれば、信じていただけないのは当然でしょう。ですが、わたくしは、宇喜多となる以前より元就様にお仕え申し上げておりました。毛利が宇喜多を得たのではありません。毛利に、宇喜多が生じたのです。例えこの名を賜らずとも、わたくしは元就様さえお許しくださったのなら、生涯を元就様に捧げ、お傍にてお仕えしたことでしょう。わたくしは安芸に生まれ、安芸に育った民なのですから」
理解できない以前に理解するつもりがないのだろう。佐助は音を耳にしていても受け止めずにそのまま流す。けれど幸村は彼に庇われながらも、の言葉と正面から対峙してしまった。生涯を捧げ、お仕えする。そう決めた相手が存在する。その幸福、その敬慕。思い、願うだけで力になる、その根源を知っている。ならば彼女は女中ではない。自分と同じ、家臣だ。背を伸ばし、毅然とし、主の名を汚さぬよう誇り高くあれ。そのための努力が如何程のものか、知っているからこそ幸村は前へ出た。
「佐助、下がれ」
「・・・旦那?」
「武器をおろし、下がるのだ。殿は安芸の国主、毛利元就殿の名代。お館様のことを思えば、某が礼を失するわけにはいかぬ」
下がれ。再度の命令には戸惑いも若さも含んでおらず、佐助は背後の主を垣間見て渋々といった様子でくないをおろし、一歩下がる。離れた慶次の手のひらから血が滴り落ち、が懐から取り出した手拭いで傷を押さえた。紅に脅えず、庇われたことに礼を述べる横顔はやはりただの女子にしか見えないが、幸村には彼女の心が何処にあるのかまるで我がことのように理解することが出来た。だからこそ尚更、己を律する。主は違えど同じ忠誠を抱く同胞に対し、惨めな姿は見せられない。負けられない。政宗に対するときとは別に、幸村の心中が滾る。赤い炎ではない。これは、青い炎だ。
「某の部下が失礼をした。先ほどの安芸との同盟の件は、某の一存では決められぬ。お館様の判断を仰ぎ、後日改めで毛利殿の元へ返答をお届けしたい。今はこれしかお答え出来ぬが許していただけるだろうか」
「十分に御座います。お心遣いに感謝致します、真田様」
「礼を申すのは某の方でござる。殿のような方と出会えて良かった」
率直な言葉に、流石に面食らったのだろう。きょとんとは目を丸くして幸村を見つめ返す。視界の端に小十郎の姿が映ったが、幸村は竜の右目にも近しい感情を覚えていた。誰かに捧げる、唯一無二の忠義。けれどそれは、背中を任される戦場だけではないのだ。戦以外の場において役に立ってこそ、初めて懐刀と認められるのかもしれない。己の新たな指標を、幸村はに見出した気がした。
俄かに凛とした幸村に、政宗が不可解気に端正な眉を顰める。佐助が小さく舌打ちしたのを頭の隅で認識し、彼はへと視線を戻した。何度見ても地味な女だと思う。飾り気のない、姫とは程遠い下働きだ。それでも中身は平凡とはお世辞にも言えない、無自覚の剣呑を秘めている。性質が悪い。心底政宗はそう思った。見た目は悪くないのに勿体ねぇ、そんなことを考える自分に思わず笑う。
「東と西じゃ考え方が違ぇだろ。俺たちは国土の拡張よりも、どうやって国を富ませるかに重点を置いている。戦は確かに悪かねぇよ。血も騒ぐし、自分がどれだけの器かってことも確かめられる。それでも戦で民が死んでくのもまた事実だ」
「Ha! 西海の鬼ともあろう者が随分と弱気じゃねぇか。つまり負けるのが嫌で出て来ねぇってことだろ」
「んじゃ勝負すっか? 東と西、どっちが強ぇか決めようじゃねぇか。俺のからくりと毛利の策謀がてめぇの勢いに敗れるなんざ露ほどにも思えねぇけどな」
「長曾我部様、喧嘩でしたら元就様は動かれません」
「わーってるよ。四国と安芸は同盟を組む。互いに不可侵の、違うことなき同盟だ。俺たちは九州には手を出さねぇ。独眼竜、てめぇが望むならくれてやるよ。あの土地を制圧できるもんならな」
暗に出来ないと評され、政宗は元親を睨み返した。互いに隻眼でも、その内の強さは異なっている。奥州から日ノ本の最南端、九州は余りに遠い。よしんば政宗が九州に跋扈しているすべての勢力を馴らしたとしても、それ相応かなりの時間がかかるだろう。その間に他国に奥州を攻められるのは避けられず、政宗が奥州と九州を同時に手に入れ、支配することは不可能に近いのだ。分かってて言っているのだろう元親の表情は楽しげだ。
長曾我部と毛利が組むのなら瀬戸内は鉄壁だ。海で分かたれているくせに、両者共に神速の水軍を持っている。どちらか一方を攻めたとして、もう片方が増援に駆けつけるのは早いだろう。奥州は土地柄、水軍はまったくと言っていいほどに有していない。海上の戦になったら勝てない。かといって陸地を下っていけば、おそらく前田が立ち塞がる。信長を認めた発言により、前田が安芸に、に好意を抱いたことは見ていて分かった。前田と安芸と四国、流石に三国を相手に立ち回れるとは思えない。もしもそれを見越して、が信長を褒めたのならば。
「・・・Shit. なんて女だ」
小さな称賛は小十郎にしか聞こえない。
「奥州は安芸とは同盟を組まねぇ。長曾我部、てめぇの四国ともな。甲斐のおっさんとも越後の軍神と、魔王を討つための一時的な同盟だったから、そっちも終わりだ。国交は続けても戦じゃ敵。奥州はどことも組まねぇ」
「政宗殿」
「奥州はどことも組まねぇ。これは俺の、奥州筆頭、伊達政宗の意志だ」
断固として揺ぎ無く宣言すれば、背後に控える小十郎が了承を示したのを空気で感じる。長曾我部が「最北だから許されることだな」と揶揄してきたが、それでも決意を変えるつもりはない。奥州は独立した勢力としてやっていく。やっていけるだけの力を、今は足らずとも先に身につけることが出来る。政宗は自国を、自国の民を信じている。承りました。がそう、頷いた。それだけが馬鹿みたいに政宗の誇りに響いた。



結局、新たな領土を得たのは伊達と武田、上杉と前田。毛利と長曾我部が拒んだために九州は据え置きで、自然淘汰を待つ形となる。同盟を組んだのは毛利と長曾我部、そしてやはり前田。戦果は等しくはないかもしれないが、この顔を突き合わせた邂逅は後に大きな意味を持ってくるだろう。人は、直接出会うことでしか相手を測れない場合もある。いずれ戦場で相対したとき、この日の出来事が一体どんな形で影響を及ぼしあうのか。もしかしたら誰かは殺せずに刀を下ろし、もしかしたら誰かはそれでも躊躇わずに振り下ろすのかもしれない。
「それにしても地味だなぁ。は美人なんだから、もっと華やかな服を着るべきだって。帰りがけに京の街で俺が見繕おうかい?」
「勿体ないお言葉ですが、慶次様。わたくしは女中ですから、着飾ることに大きな必要性を見出せないのです。それに、この着物は元就様のお色ですから、わたくしにとってはそれだけで身に余る光栄です」
「いやいや、女の子は着飾んなくちゃ! 紅ひとつ注しただけでも印象が変わるぜ? そうすりゃ毛利もいちころだって! 人よ恋せよってね!」
「まぁ。それこそ元就様に叱られてしまいます」
軽く握った拳で唇を隠し、くすくすと笑うは旅支度だ。昨日と同じ若草色の着物を身に纏い、荷の入った風呂敷を斜めに背負い、笠を被っている。会談から一夜を経て、あらかたの戦後処理も終わったため彼らはそれぞれの地へ戻り始めていた。毛利軍はすべて元就と一緒に帰参してしまったため、安芸へはひとりの旅路となる。それはあまりに危険だと言い、慶次が供としてついていくと名乗り出た。ふらりと出て行っては滅多に帰らない甥に頭を悩ませている前田夫妻だが、今回ばかりは背を押して見送る。
「それでは、前田様。この度は大変お世話になりました。同盟に関しましては後日改めて毛利家より使者をお送りさせていただきます」
「毛利殿によろしく頼むぞ! 殿も一緒に来るといい。まつの飯は最高だからな!」
「まぁ! 犬千代様ったら、まつめは恥ずかしゅうございます。ですが様、よろしければ是非にお出でくださいませね。心よりお待ちいたしておりまする」
「ありがとうございます」
まつに両手で手を握られ、別れの挨拶を済ます。年齢差は少しあるかもしれないけれど、並べばそういった面を感じさせないふたりだった。人目を引くまつに対し、が一歩控えるような雰囲気を持っているからかもしれない。
殿! 慶次殿がおられるから不安はないでしょうが、道中どうかお気をつけくだされ」
「ありがとうございます、真田様。信玄公の一日でも早いご回復を心よりお祈り申し上げます」
「へぇ、同盟はまだ組んでないのにそんなこと言っちゃうんだ?」
「猿飛様、宇喜多とて人間です。大切な人の死に涙すれば、新たな生命の誕生に喜びも覚えます。ですからどうか、おふたりも道中お気をつけくださいませ」
佐助の揶揄にもさらりと返し、逆に微笑みさえ向ける。幸村は少し名残惜しそうだったが、いずれお館様と安芸へ伺うでござる、必ず、と強い声で誓った。手は握らなかったが、見詰め合っても彼は破廉恥とは叫ばなかった。お待ちしております、と微笑んだに、幸村もふわりと笑う。それは彼にしては珍しい、意気込みよりも包容力を感じさせる笑みだった。そして彼女は最後に政宗へ向き直る。
「わたくしは戦場に出ることが叶いませんので、お目にかかることが出来るのはこれが最後になるやもしれません。伊達様も、片倉様も、どうかお元気で」
「毛利に伝えとけよ。いずれ独眼竜が食いつくぜってな」
「承りました。安芸にて、お待ちしております」
「You are so cool and sexy. If you were mine, perhaps I wannna ・・・」
途中で自ら言葉を奪い、政宗は小さく被りを振った。隻眼で見下ろすその瞳、すでにに対する侮蔑はない。
「じゃあな」
簡素な別れを告げて、政宗は先に背を向けた。小十郎も一礼してから後を追い、奥州勢がめいめい馬に跨り、政宗を筆頭に駆け出す。土埃が起こって、あっという間に青の集団は小さくなっていった。
「そんじゃ、俺たちもそろそろ行くか。忘れ物はねぇな?」
「はい」
安芸の港まで乗せていってやる、と申し出た元親の厚意に甘え、は最後に皆を振り向いた。並ぶ前田夫妻、幸村と佐助。そしてもう見えなくなってしまった政宗と小十郎。まもなく目覚めるであろう信玄と謙信。侍っているであろうかすが、何処にいるのかも分からない風魔。生死不明の久秀や、返り咲くだろう島津。そして台頭の気配を見せる豊臣他、数多の武将たち。戦の過程で出会った多くの人々に、これから出会うすべての人々に対し、彼女は深く頭を下げる。背筋を伸ばし、指先を揃えて重ね、みっつ数えてから上げられる頭は正しく安芸の国主、毛利元就の名代だった。慶次と元親に挟まれて、微笑む彼女は宇喜多だった。
「それでは皆様、またお会い致しましょう。この、戦乱の世にて」
魔王が討たれ、日ノ本の禍の大きなひとつは除かれた。それでもこの世は戦国乱世。誰もが武将であり、誰もが天下統一の可能性を秘めている。戦と策略が蠢く大地から、人々は願いに、祈りに、悲哀に幸福に、いつだって高く澄んだ天を仰ぐ。
日ノ本の空は果てなく、美しいから。





余談ですが、簪は元就様からの贈り物です。若草色の着物と日輪の簪と、それだけでヒロインを飾るには十分だと考えていらっしゃるご様子です。
2009年6月28日