聖ルドルフ学園中等部二年・金田一郎に言わせれば、その日のルドルフはまさに竜巻が起きたようだったらしい。
家や犬が巻き上げられていく代わりに、降りてきたのは一人の天使。
誰をも魅了する愛らしく可憐な美貌と、甘やかな声や仕種にルドルフは大揺れに揺れる。

「はじめまして、です。どうぞよろしくお願いします」

至高の美少女の笑みと、語尾にハートマークのついた挨拶に、教室中の生徒は学校中に轟くような歓声を上げた。





プリティ・フェイス





「おいっ聞いたか!? 二年に来た転入生!」
「すっげぇ可愛いんだろ!? そこらへんの女も目じゃないらしいじゃん!」
「ふわふわの髪に美少女顔・・・!? マジかよ、それ!」
「さっきの休み時間にB組のヤツが見たってよ! そいつが言うには最高だって!」
「やべぇ、俺らも早く見に行かねぇと・・・!」
三年のクラスが並んでいる廊下の騒がしさに、観月はじめは眉を顰めた。
ふう、とアンニュイな様子で溜息を漏らし、前髪をくるくると指に巻きつける。
その前の席で喧騒を眺めながら、木更津淳は楽しそうにクスクスと笑った。
「すごいね、まだ二時間目なのにもう三年まで噂が届いてる」
「どんなに可愛かろうが無意味だということを知らない輩が多いようですね」
「そうだよね。うちは男子校なんだから、どんなにが美少女だろうと男には変わりないのに」
そう述べる彼らとて、初対面ではの性別を見抜けなかったのだが。
「・・・・・・・・・でもあの顔は反則だと思うだーね」
「・・・・・・・・・つーか、は全部反則だろ・・・」
ぼそっと呟かれた言葉に、観月と木更津は視線を移す。
そして観月はにやぁり、木更津はふーんといった感じでそれぞれに笑みを浮かべた。
どちらも柳沢慎也と赤澤吉朗にとっては非常に好ましくない邪悪な笑みを。
「なるほど・・・・・・柳沢と赤澤はすでに彼のシンパになったという訳ですか」
「な・・・っ! シンパって何だーね!?」
「クスクス。姫を守るナイトにしては頼りないからね。やっぱり慎也は取り巻きくらいが妥当だと思うよ」
「取り巻き・・・!?」
「それに騎士の役はすでに決まっていますし」
楽しそうにクルクルと前髪を弄びながら、観月はあっさりと言い放つ。
「せいぜい盾にされるくらいで収まればいいんですけれどね」
使い物にならなくなったら困りますし、と言う彼はテニス部の選手兼マネージャーである。
木更津・柳沢・赤澤も観月が指している人物を思い描き、一人は面白そう、残る二人は同情するような表情を浮かべて。
「・・・・・・頑張るだーね、裕太・・・」
廊下では、噂の転入生を見るために三年生が二年校舎へとダッシュしている。



教室内から、前後にあるドアから、廊下側にある窓から。
向けられている数多の視線を感じつつ、けれど決してそれらを悟られないようには椅子に座っていた。
正面には幼馴染である不二裕太。そしてその隣には同じクラスの金田一郎。
彼らは居心地悪そうに椅子の上で身じろぎしている。
「あ、あの俺ちょっと・・・・・・」
ついに堪えかねたのか立ち上がった金田の耳を、甘い甘い声が打つ。
「今ここで逃げると廊下に群がっている輩の集中質問を浴びて、その上一人残される裕太を敵意の的に据えるよ?」
甘いくせに容赦の無い、むしろ甘いだけに恐ろしい内容がより一層の黒さを帯びる。
大げさなまでに肩を震わせて硬直した金田に、はさらに追い討ちをかけた。
「まぁ別にいいけどね。金田がどうなろうが俺の知ったこっちゃないし」
「・・・・・・・・・
「だけど、このままここにいてくれたら身の安全は保障するよ? 俺のこの美貌に賭けて」
止めようとした裕太を無視して続けたは、二人だけに見えるよう笑顔を浮かべた。
男だけれど美少女なに下から上目遣いで話され、極めつけに愛らしい笑顔。
それらが全部策略的なものだと知っている裕太は溜息をついて頭を抑え、免疫の無い金田は顔を真っ赤にしてあたふたと迷った挙句、再度椅子に座る。
机の上に広げられているのはカフェで買った本日の昼食。
様々なパンやおにぎりは美味しそうだが、視線に晒されまくっている中で食すとその欠片さえ感じられない。
胃に穴が開きそうだな、と裕太が溜息を吐きかけたとき、がぽつりと呟いた。
「・・・・・・・・・メロンパンが食べたい」
「それはカフェ一の人気メニューだから無理だって。四時間目が終わって速攻で走らないと買えないらしいし」
「俺、一度だけ赤澤部長が買ってるの見たことあるけど、あれも壮絶な戦いがあったらしいし・・・・・・」
「また次の機会にしとけよ」
裕太と金田に諭されて、は無言でいちごミルクのストローに口をつけた。
ちゅーっとピンク色の液体を吸い上げて、こくりと白い喉を鳴らす。
それだけの仕種と濡れて艶やかに光る唇に、廊下からざわめくような歓声が上がった。
うわ、と裕太と金田が肩をそびやかしたとき。
「―――みーつけた♪」
それだけで相手を篭絡できそうな魅惑的な声音に、裕太はのスイッチが入ったことを悟った。



それはまさに天使が降臨した瞬間だったと、その場にいたルドルフ生たちは口を揃えて語る。
自分たちと同じワイシャツを着て、ネクタイを締め、ベストを着ていたとしても天使。
ルドルフは男子校だから転入してきた彼も間違いなく男なのだろうけれど、それでも天使。
ふわふわの飴色をしている髪と、繊細な造形で成り立っている顔。
小柄で、けれど弱そうではなくまっすぐに伸びたバランスの良い手足。白い肌の先を彩っている桜色の爪。
長い睫と赤い唇は彼の愛らしさを増長させるだけで、その存在はもはや性別などどうてもいいと彼らに思わせるものだった。
男だろうが関係ない。可愛ければ美少女なのだ―――と。
天使が今、腰掛けていた椅子から立ち上がる。
「あの・・・・・・」
声さえも砂糖菓子。
先ほどから共に食事を取っていた生徒たちと会話はしていたらしいのだが、その声は廊下にいる生徒たちまでは当然届いていなかった。
というか、の潜め方によって裕太と金田にしか聞こえないようになっていたのだが。
細い指をふっくらと瑞々しい唇に当て、天使は躊躇いながら甘い声を出す。
「・・・・・・俺に、何か用ですか・・・?」
上目がちに廊下にいるギャラリーを見つめて言うその声は、弱弱しくかすかに震えていた。
瞬きを繰り返す睫は音を立てそうなくらい長く、今は愛らしい顔立ちに陰影を落としている。
胸の前で組まれた手も震えていて、そんなの姿全体に、彼が怯えているのだということをギャラリーたちは悟った。
「何だか、さっきからずっと見られてるみたいなのに、誰も声をかけてくれないから・・・」
一度俯き、決意したかのように顔を上げる。
きゅっと結ばれた唇は意志の強さを感じさせ、けれど潤みかけている瞳はいじらしさを誘って。
「――――――俺に何か用でしょうか・・・? 俺、転入生だからルドルフのことはまだよく判らないけれど、早く馴染めるように頑張ります。だから、その・・・・・・」
満面の笑みではなく、どことなく強張ったような、それでも懸命に微笑むような。
そんな可愛らしい、必死な笑顔をは浮かべて。

「・・・・・・・・・仲良くしてもらえると、嬉しいです・・・」

廊下にいたギャラリーを余すことなく、教室内のクラスメイトは金田を含めて、その場にいた誰もが瞬間的に顔を真っ赤に染め上げた。
愛らしく、それでいてどこか訴えかけてくるの笑顔に、誰もが見惚れるしか出来なくて。
決まったな、と裕太は心なしか紅くなる己の頬をこすって内心でそう判断を下した。

ゆうに一分はそのままだっただろうか。
一番最初に我に返ったのは廊下側の窓にいた生徒のうちの一人で、ネクタイの色からして最上級生である彼は首筋まで赤くしたまま裏返る声で叫ぶ。
「あ、あの・・・・・・っ!」
「はい?」
振り向いた際に、のふわふわの髪が軽やかに揺れる。
絵画になりそうなワンシーンに魅了される輩は多く、が小首を傾げたことで、思わず見入ってしまった三年生は慌てて言葉を紡いだ。
「俺たちっ・・・別に君をどうするとか、そういうわけじゃなくて・・・・・・っ!」
「・・・・・・はい」
ふんわりと、強張った表情を少しだけ溶かしてが微笑む。
三年生はさらに顔を紅くさせ、挙動不審に両手をパタパタとはためかせた。
「ただその・・・・・・っ・・・可愛い子が、二年に来たって聞いたから・・・・・・!」
「―――可愛いって、俺がですか?」
きょとんとが目を丸くすると、己の発言に気づいた相手は、慌てふためきながら撤回する。
「あっ・・・男が『可愛い』って言われたって嬉しくないだろうけど・・・・・・!」
「いいえ、そんなことないです」
照れたように頬をいくぶんか高潮させ、が笑う。
白い肌に赤みが差す様子はどこか艶を感じさせ、今度は強張った感のない笑顔に誰もが目を奪われた。
「それって、俺がルドルフに受け入れられたって思ってもいいんですよね?」
話しかけた三年生だけでなく、ギャラリーやクラスメイトたちが総出で首を縦に振る。
その様子を見て、は唇を綻ばせた。
グロスをつけていないのに鮮やかな唇がひらめき、ちらりと覗いた舌がより鮮明に。
「よかったぁ・・・・・・」
その嬉しそうな微笑は可憐であり、至上のもの。
誰もがに囚われていたそのとき、ギャラリーの内から声が上がった。

「あの――――――『姫』って呼んでもいいですか・・・っ!?」

その瞬間、勝負は決したのである。



「そうなんです、俺、アメリカからの帰国子女で・・・・・・」
微笑みながら応対するを、すでに誰もが『姫』と呼ぶ。
「あ、彼らですか? 一人は俺の幼馴染の不二裕太で、もう一人は裕太の友達の金田君です」
話題に引きずり出されると同時に敵愾心を多分に含んだ視線を向けられ、裕太と金田は身を固くする。
「二人がいたから、俺はルドルフに転入したんです。裕太と金田君は、俺の大切な友達だから」
二人のおかげで皆さんにも会えたんですよね、とがはにかむと、途端に視線は穏やかで感謝を含んだ柔らかいものに変わった。
先ほど自身が言ったように、これで裕太と金田には『出会いのきっかけを作ってくれた恩人(しかも姫の友人)だから手出し無用』という保障がついた。
「はい、今はカフェで買ってきたお昼を食べてて・・・・・・。ルドルフのカフェのパンってすごく美味しいんですね」
余談だが、寮生は昼食はすべてカフェのメニューから選ぶことになっている。
「え、くれるんですか? ありがとうございます・・・! でも、皆さんのお昼が・・・・・・」
ぽんぽんぽんぽんと食品が宙を舞っては、の細腕の中に納まっていく。
「あ、このメロンパンってカフェの一番人気のメニューなんでしょう? すごい争いが繰り広げられるっていう・・・・・・そんな貴重なもの、俺がもらってもいいんですか?」
小首を傾げての上目遣いは、もはやピンク色の破壊力しか持っていない。
「・・・・・・ありがとうございます。大切に食べますね」
嬉しそうに受け取るに、明日からメロンパンの争奪率が上がるな、とヤキソバパンを食べながら裕太は思った。
「皆さん、本当にありがとう。俺、ルドルフに転入して本当によかった」
もらったらサヨウナラ。お代は最高のスマイルを一つ。
「これからもよろしくお願いします」
それは学園生活のことなのか、それともパンのことなのか。
ギャラリーたちにはそれを判断することが出来なかったが、姫の愛らしい笑顔に前にそんなものは無意味である。
よろしくと言われたらよろしくする。姫のお言葉、それがすべて。
の笑顔に見送られて、学園中のほとんどと言っても過言ではないほどに集まっていた生徒たちは各々の教室に帰り始めた。
三歩進んでは振り向いて、三歩進んでは手を振って。
そんな輩を最後まで辛抱強く笑顔で見送ってから、は振り向いて座っていた席まで戻ってくる。
両手一杯のパンやらおにぎりやらジュースやらを机の上にばらまいて、椅子に座った。
収穫物の中にはカフェで一番人気のパンが六つ。
「メロンパンゲット」
嬉しそうにラップを剥がして食べ始めるに、裕太は深く溜息を吐いた。
すべてはパンが欲しいがために完璧な演技をしてみせる幼馴染に呆れて、けれど流石だと思いながら。
隣に座っている、先ほどから放心状態の金田の手からアンパンが零れ落ちる。
「一石二鳥。俺は『姫』に決定したし、これからの昼は自分で買わなくてすみそうだし」
もぐもぐとメロンパンを咀嚼して、は笑う。
「もちろん裕太にも分けてあげるからね」
その笑顔に逆らいきれなくて、の行動を止められない自分に、裕太はもう一度溜息を吐いた。
けれどが楽しそうだからまぁいいかな、と思う彼は、姫自ら認定された騎士なのである。



こうして、聖ルドルフの姫伝説は始まったのだった。





2004年8月19日