連れて来られた虚圏【ウェコムンド】は、織姫にとって異常な場所だった。砂と闇空ばかりで植物らしきものもない。何をして過ごせばいいのか分からないそこで、彼女はさらに未知の恐怖に晒された。かつて尸魂界で垣間見たときとは絶対的に違う。その、鼓動すら奪われそうなプレッシャー。蒼白と化した織姫を笑い、藍染は己の部下を見回す。
「さて、彼女の世話は誰に頼もうか・・・・・・」
ほとんどの破面が嫌そうに顔を歪めた中、場に不釣り合いな明るい声が響いた。

「はーい、藍染様! その役目、俺にやらせて頂けませんかー?」

まだ声変わりを済ませたばかりの、それこそ織姫と同年代を思わせる声に反射的に振り向く。その背で藍染が緩やかに笑みを深めたのに、織姫は気づくことが出来なかった。
十刃【エスパーダ】よりも下座の位置で挙手している破面は、まるで少年のような容姿をしていた。





エス・オラ・デ・レサル / Es Hora De Rezar.(お祈りの時間だ)





迷路のように入り組んだ虚夜宮【ラス・ノーチェス】は、すべて乳白色の壁をしているのに、息詰まるような閉塞感を織姫に与えた。けれど案内された部屋にはカラフルな絨毯が敷いてあり、小さな窓からは空と月も見える。そんな些細なことに安堵していると、彼女を導いてきた破面の少年が声を上げて笑った。
「一応さー出来る限りカラフルにしてみたんだ。とは言っても破面って女が少ないし、これが限界だったんだけど」
趣味じゃなかったらごめんねー。そう言って小首を傾げる姿には愛敬があり、織姫は慌てて首を横に振った。
「そんなことないよっ! 牢屋に放り込まれるんじゃないかって思ってたもの。だからすごく嬉しい」
「そー? お茶入れるよ。座って座って」
ひらひらと手で示されて、織姫は恐る恐る靴を脱いで絨毯に上がった。固いかと思っていた毛が存外に柔らかく、直接触れさせた膝もくすぐったいだけで痛くない。
備え付けの戸棚からティーカップとポットを取り出して、少年は器用に紅茶をいれる。砂糖とミルクも添えて振る舞われ、共に焼き菓子も並んだ立派なティーセットに、織姫は目を瞬いた。
「アランカルの人たちも、ご飯って食べるんだ・・・・・・」
感心したような呟きに、少年が笑う。
「まーね。俺たちは別に食べなくても平気なんだけど、藍染様は紅茶がお好きだからさー。お付き合いってやつ?」
台を挟んで向かいに座り、少年は織姫に笑いかけた。
「じゃー改めて自己紹介。俺は。ギリアン級の破面で、十刃じゃないけど数字持ち【ヌメロス】だよ」
「ぬ、ぬめろす・・・?」
「んーと、簡単に言えば破面の中じゃそこそこ強い感じ? ちなみに直属の上司はウルキオラ様。分かるっしょ? 君を連れて来た色白で黒髪な人」
表現された人物を思い出し、織姫の体が強張る。ウルキオラという名前は今知ったけれども、彼は織姫がここへ来る直接の原因となった人物だ。知らず拳を握りしめた彼女に気づいてか気づかずか、少年―――は話を続ける。
「藍染様に許可も頂いたし、これからは俺が君のお世話をするよ。欲しいものとか不都合とかあったら何でも言って? まー現世と同じものが用意できるかと言ったら、それは多分無理なんだけどさー」
ティーカップを持ち上げるの指は、織姫と似たような肌色をしている。破面の象徴とも言える仮面が、彼の場合は左目付近に残っており、そこだけ骸骨のように見せていた。けれど笑って細められる右目はまるで人間のように快活で、短い黒髪が手伝って、織姫に親友の姿を思い起こさせる。
「君さー名前、井上織姫っしょ?」
「・・・・・・うん」
「織姫ちゃんって呼んでいー?」
「うん。じゃあ、あたしも君って呼んじゃおうかなぁ」
「呼んで呼んで。破面にそんなカワイー呼び方してくれる奴いないし。みんな全然愛想なくてごめんなー? でもこれでもさ、十刃と数字持ちはまだマシな方だと思うよ。下はもっとやべーもん」
クッキーと思われる焼き菓子の載った皿を押しやられ、織姫はちょっと悩みながらも一つ摘まんでみた。くんくんと匂いを嗅いでから、覚悟を決めてぱくっと口に入れる。味は現世のものとほとんど変わらず、食生活はしっかり保障してもらえそうで、細い割に良く食べる彼女はほっと肩を撫で下ろした。
「だからさー織姫ちゃんも、しばらくは出歩かない方がいーよ。まだ織姫ちゃんのこと良く思ってない奴も多いし。下っ端なら俺がやれっけど、十刃はさすがに相手出来ねーもん」
こくりと紅茶を飲み干し、織姫はカップを握りしめる。温かい飲み物と甘い菓子が現世と何ら変わりなくて、胸の奥がきゅっと痛んだ。自ら去ってきたというのに、まだこんな、未練がある。
「しばらくはーおとなしく指示に従って、他の奴らの怪我とか治して」
彼らは、元気だろうか。親友にクラスメイト、死神に友達。元気じゃないと、自分がここに来た意味がない。元気でいて、と切に祈る。
「適当に頭下げて『藍染様の御心のままに』とか言ってさー」
それと、彼は。彼は、元気だろうか。最後に別れの言葉すら言えなかった。触れられなかった唇に、自分がどんなに彼を想っていたのかを知った。もう、二度と会えないのだろうけど。でもきっと、この気持ちは変わらない。
「そんでのんびり待ってりゃいーよ」
ぎゅっとカップを握りしめる。もう、恋しさがこんなに溢れている。

「そのうち俺がさー、織姫ちゃん、逃がしてあげっから」

目の奥がつんと痛くて、浮かぶオレンジ色を消すのに必死で、何を言われたのかなんて分からなくて。
ようやく、ようやく理解して顔を上げれば、は変わらずに右目だけで快活に笑っていた。左目の仮面がいっそおかしな程に、彼に違和感を与えている。
「・・・・・・え」
「やっぱ聞いてなかった」
「え? え、だ、だって」
「だからーもっかい言うよ? 俺がそのうち、織姫ちゃんを逃がしてやるって」
「・・・・・・うそ」
「嘘じゃないって。俺をまるごと、織姫ちゃんにあげるよ」
空になったカップを持ち、は立ち上がる。白い装束の裾が揺れ、織姫の視界を静かに舞う。
「ずっとさー思ってたんだよ。俺たち破面は藍染様によって作られたけど、もうちょっと自由があってもいーんじゃないかって。藍染様には感謝してっけど、全部あの方に捧げちゃあ、俺がどこにもいなくなっちゃう」
見上げる顔は右側だったからか、本当に人間のようだった。カップを水道で適当に洗い流し、水気を振り切って棚に戻す。
「恐怖から生まれた俺たちだけど、せめて自分の恐怖くらいは自分で決めたいじゃん?」
「・・・・・・恐怖・・・?」
「そー。だから織姫ちゃん、逃がしてあげるよ。それまではおとなしく『藍染様の御心のままに』。オッケー?」
「でも、それじゃ君が・・・っ!」
叫んで立ち上がると、織姫は自分との目線がほとんど変わらないことに気がつく。間近になる左目にも、何故だか気味悪さは感じない。すくめられた肩は、本当にクラスメイトのそれと同じで。
「だから言ってんじゃん。これはー俺の戦いでもあんの」
笑うに、何故か大好きな彼の顔が重なった。

「織姫ちゃんに運命感じちゃったんだ。だからさー君に、俺をまるごとあげるよ」

だからそれまで辛抱してて? そう言ってぽんぽんと頭を撫でられる。じゃーまた来るからごゆっくりーと去って行った背中を、織姫はぼんやりと見送った。の言っていた言葉の意味はよく分からなかったけれど、何故だか無機質な壁や部屋が、少しだけ柔らかく見える気がした。



「―――あかんなぁ。人形は人形らしゅう、作り手の言うことを聞いてへんと」
織姫に与えられた部屋を出て、最初の曲がり角を折れた瞬間だった。威圧が加えられたわけでもない。けれど全身が粟立つような感覚は紛れもない力量の差からくるもので、はひゅうっと喉を引きつらせた。かちりとなった歯の音に、破面ではなく死神―――市丸ギンは、浮かべる笑みを深くする。
「藍染隊長に反旗翻そうなんて、そないなこと考えたらあかんよ。人形は人形らしゅう、おとなしくしとき」
「・・・・・・っ・・・」
「ボク相手でさえこれなんやから、君やと藍染隊長どころか十刃にも勝てへんで。せやから、ええ子にしとき」
伸びてくる手にも動けない。骨ばった長い指に顎を掬われ、否応無しに視線を合わされる。身体が震えるのは刻み込まれた畏怖に対してだ。選んだものではない。それが悔しくては唇を噛み締める。そんな彼に、ギンは笑った。
「あかんなぁ・・・・・・君みたいなかわえぇ子、ボクかていじめたないんやで?」
戯れのように仮面をなぞり、ギンは長身を屈めての耳にかかる黒髪を除け、唇を寄せる。
「せやけど、どうしても無茶したいんやったら、そんときはボクんとこおいで。・・・・・・藍染隊長に内緒で、手ぇ貸してあげてもええよ?」
見開かれた右目ではなく、感情に変わることのない左目を撫で、ギンは笑った。
闇空の中、浮かぶ月は沈まない。

虚圏に侵入者が現れるのは、それから数日後のことだった。





主よ。私は私に気がついたとき、あなたの御手から離れたのです。
2006年10月25日