サッカーが好き。
男だから、女だからなんて関係ない。プロのサッカー選手になるんだって小さい頃から決めていた。
そのためなら練習だって頑張るし、誰にも負けないくらい努力する。
だってあたしはサッカーが好きだから。



サッカーが好きだから、絶対にプロになってやる。





Go ahead on your Blue.





物心ついたときには、もうサッカーボールが近くにあった。
8歳年上のお兄ちゃんが地元のサッカーチームに入っていて、よくマンションの中庭でリフティングをしていた。
あたしは2歳年下の弟、と一緒にそれを見ていたけど、自分でもやってみたくてお兄ちゃんからボールを奪っては、リフティングしようとしていつも失敗してた。
お兄ちゃんはそんなあたしに笑いながら、リフティングのコツを教えてくれた。
あたしとお兄ちゃんがボールを蹴っているのを、まだ小さいはずっと見てた。
すごく嬉しそうだったのが、今なら判る。



小学校三年のとき、同じクラスの男子が地元のサッカーチームに入ってるって聞いた。
プロチームのジュニアじゃないけど、でもすごく楽しいって。放課後に校庭でやるんじゃなくて、ちゃんと指導してくれる人がいるから上手くなれるんだって。
その話を聞いて、あたしもすぐにチームに入りたいってお母さんに言った。
お母さんは最初ちょっと困ってたみたいだけど、うちはお兄ちゃんが高校でサッカーをしてるし、わりとすんなりと認めてくれた。
どうせだからと言って一緒に入れられたと、毎週日曜日は近くの大学のグラウンドに通った。
お兄ちゃんから時々教えてもらっているあたしとはチームでも上手い方で、コーチには『有希ちゃんはプロになれるぞ』って言われた。それがすごく、すごくすごく嬉しかった。
その年、お兄ちゃんの高校が全国大会でベスト4まで勝ち上がった。
勝つ度に笑顔で帰ってくるお兄ちゃんを、あたしも笑顔で出迎えた。サッカーがすごく上手いお兄ちゃんは、あたしの自慢だった。
お兄ちゃんが暇なときにパスの相手をしてもらっていると、たいていはが近くでそれを見ていた。
すごくすごく嬉しそうだったのが、今なら判る。



引越しの話を聞いたのは、あたしが六年生のときだった。
サッカーチームは相変わらず楽しくて、あたしはずっとレギュラーで試合に出るのが続いていた。
はまだ四年生だけど、上手いからって他の六年を押しのけて選ばれることが結構あった。
MFのあたしと、FWのとのコンビはやりやすいから好き。どこに走りこんでいるかとか、タイミングとか、すごくぴったり合うから。
だけど引っ越したら遠くて、今のチームには通えなくなる。そんなの絶対に嫌だった。
「なんで!? そこからだと今のチームに通えなくなる!」
本気でそう言ったのに、お母さんは話を聞いてくれなかった。
答えるのは、おやつの準備をしている片手間だった。
「有希、あなたは女の子なんだから、もうサッカーはいいでしょう? お兄ちゃんとは違うんだから」
「女がサッカーやっちゃいけないの!?」
「そうは言わないけど、あなたはサッカーばっかりじゃない。もう中学生になるんだし、部活も始まるわよ」
「あたしは部活よりサッカーがしたいの!」
「・・・・・・有希」
どんなに訴えても、お母さんは取り合ってくれなかった。「女の子なんだから」「お兄ちゃんとは違うんだから」って。
女だとサッカーやっちゃだめなの!? お兄ちゃんは良くて、あたしはだめなの!? 何で!
聞いても、お母さんはあたしの納得できる答えを返してくれない。いらいらして、おやつも食べずにリビングを出た。
靴を履いて、サッカーボールを抱きしめて外へ駆け出す。薄汚れたサッカーボール。あたしの宝物。
これがあったから、今まで頑張ってこれた。これからだって、ボールさえあれば頑張っていける。
それなのに。それなのに!



あたしはサッカーが好きなの。プロになるって決めているの。
そのためならどんなに辛い練習だって、いくらでもこなすって決めてるんだから。



マンションの中庭じゃなくて、公園まで走った。息が切れてないのは、マラソンとか毎日してたおかげ。
だってあたし、サッカー選手になるんだもの。サッカー選手になるんだもの!
悔しくて思い切りボールを蹴った。壁に当たって跳ね返る。それをもう一回、シュートする。
泣きそうだった。だけど泣かないって決めて、歯を食いしばった。こんなことじゃ泣かない。勝手にそう決めた。
青かった空がオレンジになって、影がかなり長くなった頃、が公園に入ってきた。
ちょっとだけミスしてこぼれたボールを、はその足で受け止める。スパイクじゃなくてスニーカーだけど、そのトラップはすごく滑らかだった。
は上手い。コーチたちだって言ってる。あたしもそう思う。
だけど、だけど。
「・・・・・・お母さん、どうせあんたにはクラブに入ってもいいって言ったんでしょ」
夕日に染まって、の顔が真っ赤だった。お兄ちゃんよりも、あたしに似てるって言われてる顔。
「あんたは男だから、サッカーしてもいいって言われたんでしょ」
上手いからじゃなくて、男だから。弟だからサッカーしてもいいって言われたんでしょ。
判ってた。サッカーチームは楽しいけど、最近はそれだけじゃなくなってきてること。
同じ六年の男子が、本気でスライディングをかけてくれなくなった。パスとか、変に強くないものになってきた。
女の子だから? 女の子だから。だから、一緒にサッカーは出来ないんだって。
一緒にフィールドに立ってるのに、そう言われてるみたいで悲しかった。
背も、力も、体重も、全部抜かされ始めてる。
「・・・・・・俺は、クラブには入んないよ。だって俺」
の言葉に、頭の中がカッとなった。
「―――っ何それ! バカじゃないの! あんたは男なんだからサッカーすればいいでしょ! それともあたしのこと哀れんでんの!? バカにしないでよ! あんたなんか―――・・・・・・っ!」
あたしの影はもう、にさえ届かない。



なんか、だいっきらい!」



サッカーボールはに元にあったままだけど、顔も見たくなくて走って逃げた。
だって、はあたしのほしいものを全部持ってる。男の力、身体。全部あたしのほしかったもの。
好きなだけじゃサッカーは出来ないの? 女の子だからサッカーしちゃいけないの?
あたしだって、好きで女に生まれてきたわけじゃないのに。



あたしはサッカーが好きなの。
プロになるんだって、決めてるの。
プロになりたいの。



それから何度言っても、やっぱりお母さんは聞いてくれなくて、無理やり転校させられてサッカーチームも辞めさせられた。
は新しくサッカーチームには入らなかった。それがすごく頭に来て、とは喋らなくなった。
お母さんに言われて普通のことは話すようにしたけど、でもサッカーのことだけは話さない。
だっては、あたしがほしかったものを全部持ってるのに、それを捨てた。捨てるくらいならあたしがほしかったのに!
あたしは女ってだけでだめだったのに、それをは!
中学に入学してもやっぱり女子サッカー部はなくて、しかも男子サッカー部は全然真面目に練習してないからマネージャーになる気もなかった。
でもどうしてもプロになるって気持ちを捨て切れなくて、サッカーは出来なくてもマラソンや壁へのシュート練習なんかを一人で続けた。
誰かもう一人いてくれたらパス練習も出来たかもしれないけど、頼るつもりなんてなかった。
古かったボールがぼろぼろになって、お小遣いを貯めて新しいボールを買った。
アンブロのウィンドブレーカーを被って、朝と夜、毎日走った。
家の窓からの視線を感じたけど、絶対に振り向かなかった。



身長の伸びるスピードが遅くなってきて、それが許せなくて必死で牛乳を飲んだ。
大きくなってくる胸が嫌で、きつくなってもブラジャーのサイズを変えなかった。
リビングですれ違ったとき、の目線の高さがあたしと同じくらいでドキッとした。
怖かった。このままじゃ、本当にサッカーが出来なくなりそうで。
怖くて、泣きそうだった。



あたしはサッカーが好きなの。
プロに、なりたいの。



救われたのは、中二のときだった。
風祭が転入してきて、水野がやっと動き始めて、すごく良い感じに変わり始めたサッカー部。
じっとしていられなくて最初はマネージャーとして入部したけど、いろいろあってプレイヤーとしても認めてもらえた。
男女の差はやっぱりあって、結局は試合に出させてもらえなかったけど、でも女子プレイヤーとして認めてもらえたことが嬉しかった。
サッカーを続けていて良かったと思った。
サッカーが出来る。それだけのことが、本当にすごくすごく嬉しくて。
風祭や水野に応援されて、女子サッカー部を立ち上げた。部員はやっぱり少なかったけど、でも一緒にサッカーをしてくれる子がいるだけで十分だった。
サッカー部に入ったことを言うと、お母さんはやっぱり困ったような顔をした。
嫌そうな、でも仕方がなさそうな顔。「部活なら」と許してくれて、何で許してくれるんだろうと思ったけど嬉しかったから聞かなかった。
重いスポーツバッグが嬉しかった。スパイクをまた履けることが幸せだった。
との確執はまだ続いていて、サッカーの話はしなかったけど、でもそんなこと気にならないくらい充実した毎日だった。



あたしが三年になる年、が桜上水中に入学してきた。
でも三年と一年じゃ廊下で会うこともほとんどないし、はサッカー部じゃなくて陸上部に入ったから尚更会わなかった。
「小島の弟って、サッカーしないんだな」
部活で外周を走っているを見て、いつだか水野が言った。
はあたしの弟ってことで、三年の間では結構知られていた。あたしたちは顔がよく似ていたから。
お兄ちゃんとあたしがサッカーをするから、きっともするんだって水野は思ってたのかもしれない。
「しないわよ。はこっちに引っ越してくるときに辞めたもの」
「こっちだってサッカーチームはあるのにな。何で入らなかったんだ?」
「何でって―――・・・・・・」
言葉に詰まった。
そういえば、何でがサッカーを辞めたのか。
あたし・・・・・・知らない。



はサッカーが上手かった。
お兄ちゃんがあたしにサッカーを教えてくれてると、はいつも近くで嬉しそうに見てた。
一緒にやろうって手を引っ張って連れ出すと、何でかお兄ちゃんは笑っていた。あれはどういう意味だったんだろう。
・・・・・・そういえば。



あたしどれくらい、の笑顔見てない・・・・・・?



中三の一年は、本当にあっという間に過ぎていった。
どうしても諦められなくて、女子サッカー部の強い学校に行きたいってお母さんに言った。
そしてゆくゆくはアメリカ留学して、プロになりたいって。
ずっとずっと、小さい頃からのあたしの夢。どうしても諦められない。
お母さんは「女の子なんだから」って昔と同じ台詞を並べたけど、でも今回はあたしだって譲れなかった。
悲しかったり悔しい思いもしたけど、逃げ出さずに話を聞いて、そして話をした。
認めてもらいたかった。あたしがサッカーを好きな気持ちを。
他の誰でもないお母さんに、認めてもらいたかった。
お兄ちゃんはあたしの味方で、レイソルのフロントから女子プロリーグのことを聞いてきたり、女子日本代表の人から現状を聞いてきてくれたりした。
実際にLリーグの試合にも連れて行ってくれた。
日本での女子サッカーはまだまだマイナーだけど、そんなことは関係ない。プロになりたい。
サッカーと生きていきたいんだって、ずっとずっと思ってたから。
だから、必死でお母さんを説得した。



お母さんが許してくれたのは、一月三日のことだった。
アメリカ留学のことはこれからじっくり考えるとして、女子サッカー部の強い学校に行くことを許してくれた。
サッカーしてもいいって言ってくれた。頑張りなさいって。
嬉しくて涙が出た。ぎゅって抱きついたら、頭を撫でてくれて。その手がすごく優しくて涙が止まらなかった。
三学期が始まってすぐ先生に志望校の変更を申し出て、それからは一生懸命勉強した。
合格発表はお母さんと一緒に見に行った。番号があったとき、声をあげずにはいられなかった。
高校のサッカー部は練習が多いけど苦にならなかった。
監督にも才能があるって言ってもらえた。プロになりたいからアメリカ留学したいって言ったら協力してくれて、資料を集めてくれたり、お母さんを一緒に説得してくれたりした。
そのおかげもあって高二の春から二ヶ月間アメリカに留学できて、クラブユースの入団試験にも合格できて。
九月からは高校を辞めて、向こうのインターナショナルスクールに転入することになった。
どきどきする。緊張と、不安。でも頑張ろうと思う。
お母さんやお兄ちゃん、監督や桜上水のみんな。応援してくれる人に応えるためにも。



「有希」
アメリカに発つ日、成田空港でお父さんがあたしを呼んだ。
お父さんはあたしのサッカーをしたいっていう主張に何も言わなかった。ただ、じっと見守っていてくれた。
あたしの手を握る、大きな手。お母さんとは違う、でも優しい手。
優しい目で、お父さんは言った。
「気をつけて行ってきなさい。辛くなったら一人で無理しないで、家に電話しておいで。私たちはみんな、おまえのことを大事に思ってるんだから」
「・・・・・・うん」
「そしてそれは、だって変わらない」
お父さんの言葉に、思わず身体が震えた。
は見送りに来てなかった。部活があるとか、何とか言ってたかもしれない。話をしてないから判らない。
あたしはに、留学することすら自分の口から言ってなかった。
だって、だっては。
は言ってたよ」
お父さんの手が、あたしの頭を撫でる。



「『自分は有希姉のサッカーしている姿が好きだから、いつだって一番のサポーターでいたいんだ』って」



窓から見える景色が遠ざかっていく。
あたしはその日、日本を発った。



あたしはサッカーが好きなの。プロになるって決めてるの。
幼い頃から、それがあたしの目標。
――――――じゃあ、は?



マンションの中庭、リフティングしているお兄ちゃん。
ボールを奪って下手なリフティングをするあたし。お兄ちゃんがコツを教えてくれる。
そんなあたしたちを、はずっと見てた。



嬉しそうに、ずっと見てた。





このお話は『パズル〜The fragment of the dream〜』様への参加作品でした。
2005年7月1日