俺は、周囲から見たら冷めた子供だったのかもしれない。
だけど後悔なんてしてない。だってそれは俺が選んだことだから。
選んで、決めたこと。違うんだって判ったから。
だから、選んだ。



明希人兄と有希姉はプレイヤー。
だけど俺は、サポーター。



サッカーをしている二人を見るのが、俺はとても大好きだった。





Go ahead on your Blue.





物心ついたときには、すでにサッカーボールが近くにあった。
10歳年上の明希人兄が地元のサッカーチームに入っていて、よくマンションの中庭でリフティングをしていた。
俺にとってはまだボールは大きくて、両手で抱えるだけで精一杯、蹴ることなんて出来なかった。
2歳年上の有希姉は負けず嫌いで、明希人兄から手でボールを奪ってはリフティングをしようとして、いつも失敗してた。
そんな有希姉に、明希人兄が笑いながらコツを教える。
俺はそんな光景を見るのが幼いながらに好きだった。



俺が小学校に上がったとき、有希姉がサッカーをしたいって言って地元のチームに入った。
小学生だし、まだ男子も女子も関係ないチーム。母さんは有希姉と一緒に俺もそのチームに入れた。
一年の俺は当然ながら一番小さかったし、同学年の奴なんてほとんどいなかったけど、でも明希人兄に教えられていて技術だけは三年にも負けなかった。
三年生だった有希姉は、五年の男子にだって負けなかった。
最初の練習があった日の夕飯、そう報告したら明希人兄は楽しそうに笑った。
その次の日、明希人兄の高校のサッカー部は関東大会で優勝した。
泥だらけのジャージで帰ってきた明希人兄はすごくすごく喜んでいて、そんな明希人兄に抱きつく有希姉もすごくすごく嬉しそうだった。
俺はそんな二人を見るのがすごくすごく好きだった。



引越しの話を聞いたのは、俺が四年生のときだった。
今のマンションを出て一軒家に引っ越すのだと聞いた。学校が変わると言われて、嫌だけど仕方ないと思った。
だけど有希姉はものすごく嫌がった。
「なんで!? そこからだと今のチームに通えなくなる!」
その言葉を聞いて初めて、サッカーチームも辞めなきゃいけないんだと気付いた。
でもそうか、と思っただけだった。四年間も続けてきてそれはどうかと言われるかもしれないけれど、俺にとってはその程度のことだった。
サッカーは好きだけど、それ以上に好きなものがあったから。
「有希、あなたは女の子なんだから、もうサッカーはいいでしょう? お兄ちゃんとは違うんだから」
「女がサッカーやっちゃいけないの!?」
「そうは言わないけど、あなたはサッカーばっかりじゃない。もう中学生になるんだし、部活も始まるわよ」
「あたしは部活よりサッカーがしたいの!」
「・・・・・・有希」
こんな風に喚く有希姉の声を聞いたのは久しぶりだった。柏レイソルに入団した明希人兄が家を出て行くとき以来だ。
だけど母さんはそれに取り合わないで、「女の子なんだから」「お兄ちゃんとは違うんだから」と言い続ける。
少しするとかんしゃくを起こして、有希姉がリビングから飛び出していった。
慌てて後を追いかければ有希姉は玄関で靴を履いて、外へ出て行く。
追いかけようか迷ったけど、止めておいた。だって玄関にいつも置いてあるサッカーボールがなくなっていたから。
傷が一杯あって、白いところが茶色に変わってるそれは、有希姉の宝物。
それを持っていったから、何となく大丈夫だって思った。
リビングに戻ると、母さんが有希姉の食べ終わってないおやつを片付けていた。
はどうする? 引っ越してもサッカーチームに入る?」
どうしてそんなことを聞くのだろうと思った。有希姉は駄目なのに、俺はいいの?
性別の差だって判ってはいたけれど、俺も納得は出来なかった。
俺は、有希姉のサッカーしている姿が大好きだから。
「いいよ。俺も入んない」
食べる気になれなくて、用意されたおやつに手をつけないでリビングを出た。



俺はサッカーよりも、サッカーをしている有希姉と明希人兄が好きだから。
だから、二人がいなきゃサッカーする意味なんてないんだ。



有希姉は、マンションの中庭じゃなくて公園にいた。
壁に向かってボールを蹴って、時々リフティングしたりする有希姉は、やっぱりすごく上手かった。
おぼろげに覚えている明希人兄の姿が、有希姉に重なる。有希姉は女だけど、誰よりサッカーが上手いと思う。
転がってきたボールを足で受け止める。四年間サッカーをやってきて、俺も結構上手くはなった。
だけどあんまり意味はない。だって俺は、プレイするよりも見る方が好きだから。
「・・・・・・お母さん、どうせあんたにはクラブに入ってもいいって言ったんでしょ」
有希姉の顔が、夕日で見えなかった。
「あんたは男だから、サッカーしてもいいって言われたんでしょ」
声しか聞こえなかった。影が俺の足元まで届いてなかった。
オレンジ色の光の中で、有希姉がすごく小さく見えた。
手も足も細くて、折れそうだった。
有希姉は、いつからこんなに。
「・・・・・・俺は、クラブには入んないよ。だって俺」
「―――っ何それ! バカじゃないの! あんたは男なんだからサッカーすればいいでしょ! それともあたしのこと哀れんでんの!? バカにしないでよ! あんたなんか―――・・・・・・っ!」
有希姉。



なんか、だいっきらい!」



足元に残された、サッカーボール。蹴り上げる気になれなくて、両手で拾った。試合ならハンド。
傷が一杯ついてて、すごく汚れてるけど大切にされてきた、有希姉の宝物。
それを置いたまま、有希姉は走っていってしまった。
「・・・・・・だって、俺」
つん、と鼻の奥が痛い。



だって俺、サッカーよりもサッカーをしている有希姉の方が、好きだから。



それ以来、俺と有希姉はサッカーについて話すことがなくなった。
クラブチームのことも、部活のことも。明希人兄の試合は一緒に見るけれど、それはテレビがリビングにしかないせいで、話したりはしなかった。
引っ越してから、有希姉はやっぱりクラブに入れてもらえなかったけど、一人でマラソンしたり、ボールを蹴ったりはしてるらしかった。
俺が相手になればパス練も出来るんだろうけど、ボールを持って出て行く有希姉の後ろ姿に何だか拒否されてる気がして言えなかった。
俺と有希姉が共用で使っていたボールは、今は有希姉一人のものになった。
でもそれも古くなりすぎて、有希姉は自分のお小遣いを貯めて新しいボールを自分で買った。
俺はもうスパイクも入らなくなって、ユニフォームも着れなくなって、サッカーを本格的に辞めた。
有希姉がいたから続けてきただけで、やっぱりあんまり嫌だとは思わなかった。
ウィンドブレーカーのフードを被ってマラソンに行く有希姉を、一人部屋の窓から見送るのが俺の日課になっていた。



父さんに言ったことがある。有希姉はサッカーが好きなんだから、サッカーをやらせてあげてって。
母さんはそのことに反対してるから、直接父さんに言った。会社から帰ってきて、背広を着替えているときに。
明希人兄にも言いたかったけど、明希人兄はレイソルの寮に住んでるし、遠征で出かけてることも多いから言えなかった。
有希姉はサッカーが好き。すごく好きなんだからやらせてあげて。
そう言った俺の頭を、父さんは手の平で撫でた。
だけど何も言ってくれなかった。



有希姉が変わったのは、俺が小学六年のときだった。
長かった髪をばっさり切って、今までどこか暗かった表情が明るくなった。
何でだろうと思っていると、ダイニングで有希姉と母さんが話している会話が聞こえてきて、それで判った。
有希姉は、中学でサッカー部に入ったんだ。しかもマネージャーとしてだけじゃなく、プレイヤーとして。
そのことを聞いたとき、すごく嬉しかった。有希姉がまたサッカー出来るのが嬉しかった。
有希姉がサッカーしてくれると嬉しい。壁を相手にじゃなく、誰かを相手にパスを出して、パスをもらえるのを見れるのが嬉しい。
自分のことのように嬉しくて、胸がぽかぽかした。おめでとうって言いたかった。
大きなスポーツバッグを抱えて出て行く有希姉の背中は眩しくて、すごく輝いて見えるのに。
何でか、言えなかった。
俺と有希姉の間では、まだサッカーの話はタブーだったから。



有希姉が女子サッカー部を作ったことを、母さんと有希姉の話から知った。
どんどん前に進んでいく有希姉が嬉しかった。たとえ、そこに俺がいなくても。
有希姉のサッカーしている姿が、俺は好きだから。だからそれでよかった。



俺が桜上水中に入学したとき、もう女子サッカー部は始動していた。
人数はまだ足りないらしいけど、でもぎりぎり試合が出来るくらいの部員はいるらしい。
男子サッカー部はすごい人がいるらしくて人気があったけど、でも入る気はなかった。
この前実家に帰ってきた明希人兄にも、「サッカー部に入らないのか」って聞かれたけれど、俺はやっぱりプレイヤーではないから。
特に興味のある部活もないから、友達に誘われるまま陸上部に入った。
外周をしているときに見えるサッカー部。
ボールを蹴っている有希姉は、すごく楽しそうで嬉しかった。



俺にとっては特に何もない一年だったけど、有希姉は違った。
そうなるんじゃないかと思ってたけど、やっぱり高校のことで母さんとぶつかった。
有希姉はサッカーが諦められないから、女子サッカー部の強い高校に行きたいって言った。
ゆくゆくはアメリカ留学して、プロのサッカー選手になりたい、って。
母さんは「女の子なんだから」と昔と同じ台詞で説得したけど、今回は有希姉も引かなかった。
途中でボールを持って出て行かなかったし、むしろ話を切り上げるのは母さんの方が多かったかもしれない。
明希人兄も有希姉の応援らしく、レイソルの人から女子プロリーグのことを聞いてきたり、女子日本代表の人から現状を聞いてきたりしてた。
まっすぐにぶつかる有希姉と、母さん。
サッカーのことで必死になる有希姉は、すごく強く見えた。
俺と有希姉の間にあるサッカーに関する確執はまだ続いていたから、俺は口を出さなかったけど。
いつだって有希姉の思うとおりになればいいって思ってた。そのためなら、何でもしようって思った。



母さんはクリスマス直前になってもまだ、有希姉の道を認めなかった。
アメリカ留学に関してはもとより、女子サッカー部の強い学校に行くことも。母さんは有希姉がサッカーすることに反対みたいだった。
女の子なんだから、と言ってはいたけれど、心配だったんだと思う。女子サッカーの道は、まだまだ難しいものだったから。
明希人兄を連れて部活の人と年越しフットサルに行く有希姉の後ろ姿を思い出しながら、年越し蕎麦を食べた。
「母さん。俺の塾のことなんだけど」
行く年来る年を見ながら、話しかけた。
もうすぐ中二になる俺を、母さんが塾に通わせようとしていることは知っていた。
「俺、今でも学年で10位以内の成績とってるし、行く必要ないよ」
蕎麦を食べていた母さんが、箸を止めた。その向かいで、父さんは優しい眼をしてた。
「高校も都立に行くし、大学だって国立に行く。それか奨学金をもらうよ。だから有希姉を行かせてあげて」
「・・・・・・
「俺、有希姉がサッカーしてるの見るの、好きだから」
だからそのためなら、勉強くらいいくらだって頑張るよ。
俺は、有希姉のサポーターだから。



俺は、有希姉がサッカーしている姿が大好きだから。



結局、母さんは元旦から三日目に、有希姉の道を認めた。
すごく嬉しそうに、嬉しすぎて泣いていた有希姉。よかったね、と心の中で思った。
それから受験をして、女子サッカー部の強い私立女子高に入った有希姉は、高二の春から夏にかけてアメリカに留学した。
そのときにクラブユースの入団試験を受けて、見事合格して。
九月からはまた、今度は本格的にアメリカに留学することになる。
見上げた空は眩しくて、飛行機の飛んでいく音が聞こえた。



「いってらっしゃい、有希姉」



俺は一生有希姉のサポーターだから。
ずっとずっと、応援してるよ。





このお話は『パズル〜The fragment of the dream〜』様への参加作品でした。
2005年7月1日