遠くで聞こえる歓声にリョーマは無意識のうちに眉を顰めた。
おそらく跡部が盛り返してきているのだろう。
いかに手塚が強いといえど今は怪我をしている。跡部が有利なことは否めない。
さっさとアップをしなければと思い、場所を取りに行った桃城を探して視線をさまよわせると、視界の端に何かが映った。
「・・・何、アレ」
黒い物体が木の陰に見えて、足を進める。
近づくとそれは艶やかな黒髪だと分かって。
リョーマはそっと覗き込んだ。
そして思わず息を呑む。





決戦





黒い髪が太陽の光を受けて煌いている。
芝生に広がるそれはよく手入れされていて綺麗に天使の輪を作り、肩を越すくらいの長さだろうか。
そして、ゆるやかにまぶたを閉じている顔。
うっすらと開いている唇は鮮やかな紅色で。
「・・・・・・・・・美人じゃん」
リョーマは思わず感想を漏らした。
そして顔を正面で見れるように回り込み、腰を下ろす。
それでも気づかずに眠り続けている存在。
「このジャージって・・・」
かけられているジャージに首を傾げる。
グレーの袖に黒の襟、肩には何本かラインが入って。
「・・・氷帝?」
今現在、青学と対戦してる学校だと気づき、リョーマは憮然とした表情を作る。
丸くなって眠る存在に視線を落としたまま、つまらなさそうに。
「ふーん・・・テニス部員の誰かの彼女ってわけ」
答える者はいないと判っていても口に出す。
小柄な体は丸くなることでさらに小さくなって。
どうみてもその存在のものではない大きいサイズのジャージが、小さな体をスッポリと隠していた。
何となく納得いかない、と思いリョーマが唇をきつく結ぶ。
「・・・こんな所で眠ってるアンタが悪いんだからね?」
にやりと笑みを浮かべて、流れる黒髪を一房手に取った。
サラサラとした感触に軽く笑って。
その髪へとキスを落とす。
「起きないアンタが悪いんだから」
そっと顔を近づけた。



「ゲームセット! ウォンバイ跡部、7ゲームズトゥ6!」
わぁぁっと歓声が起こった。そして同時に悲嘆の声も。
「手塚!」
肩を抑えて足取りもふらつく手塚を大石が走りよって支えた。
長時間のプレーとケガの痛みによって疲労した体は重く、崩れるようにベンチへと腰を下ろして。
タオルを受け取って頭へとかける。
誰もがかける声に悩んだとき、いつもと変わらない強く響く声がタオルの下から聞こえてきた。
「――――――越前を呼んできてくれ」
これから始まる試合のために。
最後の勝負を任せられるのはアイツしかいないと言外に言って。
うん、と頷いて菊丸が走っていく。
後はすべて、彼に任せるしかない。



「跡部、ご苦労さん」
ゆっくりと歩いてベンチへと戻ってきた彼に忍足がタオルを投げてよこす。
それを受け止めて汗を拭くと、跡部は不機嫌なまま口を開いた。
「向日、鳳」
地を這うような声に二人は一瞬身を震わせて。
「なっなんだよ?」
「何ですか、跡部部長」
跡部はラケットをベンチへと立てかけて、青学ベンチを見た。
輪を抜けて走っていく菊丸を確認して宣言する。
を呼んで来い」
ザワッとそれを聞いた氷帝の生徒たちがざわめいた。
言われた当人の向日や鳳はもちろん、忍足や宍戸まで目を丸くして。
「・・・なんや、自分を出すつもりなん?」
信じられないといった声に跡部はハッと軽く笑って。
「アイツ以外に任せられる奴はいねーだろ。オラ、さっさと呼んで来い!」
命令口調で言われた言葉に、二人は楽しげに笑顔になって。
「オッケー! この会場のどっかにいるんだろ!?」
「すぐに連れてきますから!」
人の波を掻き分けて駆けていく。
ざわめき立つギャラリーを無視して跡部はベンチへと座った。
まっすぐに、目線はコートへと向けたままで。
「これでいいですよね、監督」
榊は微笑して満足げに頷いた。



リョーマがテニスコートへと戻ってくると、やけにギャラリーが増えていた。
おそらく青学対氷帝の試合が目の離せない展開になってきたからだろう。
別にいいけどね、とリョーマは小さく呟いた。
手塚は顧問の竜崎に連れられて病院へと行き、ベンチには乾がノートを開いて座っている。
リョーマもその隣に鞄を置いて腰を下ろした。
「乾、氷帝の選手は誰が出てくるか分かる?」
「そうだな・・・」
不二の言葉にノートをパラパラとめくって。
「正レギュラーは全員試合に出てしまったからね。次に出てくるのは準レギュラーだと思うよ。先月レギュラー落ちした滝か、最近実力を上げていると噂の日吉か」
「準レギュラーってことはさっきのヤツラより弱いってことっスか?」
「弱いとは言っても氷帝で上位にいる奴だから。油断は禁物だぞ、越前」
たしなめるように言う大石に挑戦的に笑って。
「誰だっていいっスよ。どうせ青学(オレ)が勝つんだから」
絶対的な自信を浮かべて言い放つリョーマにレギュラー陣は安心したように苦笑する。
ひょっとしたらプレッシャーを感じているのではと思っていたが、それはどうやら杞憂の様子。
そんなとき、ザワッとギャラリーが揺れた。



「跡部〜連れてきたぞ!」
駆け寄ってくる向日に自然と人並みが分かれて、青学ベンチからもその姿が見えた。
向日の後ろにはゆっくりと歩いてくる鳳。
そして、つながれた左手の先にいたのは。
「さっきの・・・・・・・・・!」
驚きで漏れた言葉は、みんなその人物の登場に戸惑っているからか誰にも聞かれることはなかった。
リョーマは思わず口元へ手を寄せる。
にこやかな笑顔で手を引く鳳の隣には、長い黒髪をなびかせた小柄な存在。
白い肌に紅い唇。
物憂げに伏せられたまつげが頬に影を作って。
大きすぎるジャージは太腿まで隠していて、その下のハーフパンツがわずかに見えるくらい。
向日がフェンスのドアを開けて迎え入れると、跡部が一歩近づいた。

かけられた声にゆっくりと顔を上げて。
繊細な造作の顔が跡部を見上げる。
「これから決定戦だ。準備しろ」
横柄な物言いにコクンと頷いて。
大きなジャージを脱ぐと近くに居た一人に差し出した。
「・・・侑士先輩、ジャージ・・・・・・」
ありがとう、と小さく呟いた声は声変わりをしていない高めの声で。
「どういたしまして。ええ夢見れたか?」
笑って受け取った忍足に、また頷く。
「そか。よかったなぁ」
くしゃくしゃとその黒髪を撫でて、愛しそうに。
「ほら、。そこに座れ」
ベンチを指差されて大人しく座ると、後ろから宍戸がブラシを取り出した。
流れる黒髪にそっと通して。
耳にかかる髪も丁寧に纏め上げる。
〜」
「おい、ジロー止めろッ!」
がいきなり抱きついてきたジローのせいで微妙に押され、宍戸が文句を言う。
けれど本人はお構いナシに頬を寄せて。
「ごめんね、俺が負けなければよかったのに・・・・・・」
申し訳なさそうに謝る姿に小さく首を振って。
宍戸がその拍子にこぼれてしまった髪をやはりそっと掬い上げる。
ジローはそんなに柔らかく笑う。
「じゃあ今度ケーキおごったげるー。の好きなもの、何でもおごっちゃうよー」
満面の笑顔で頬をピタッとくっつけさせて。
宍戸がそんなジローをベリッと引き剥がした。
「ほら、出来たぞ」
ポンと頭を軽く叩いて鏡を渡す。
そこには黒髪をポニーテールに結い上げられ、ピンを沢山つけたの姿。
「おぉカワイー
「せやな、さすがは別嬪さんや」
向日と忍足が褒めるのを聞いて、後ろを振り返る。
「・・・ありがとう、宍戸先輩・・・・・・」
「ん。頑張れよ」
照れたように笑う宍戸に小さく頷いて。
、ラケットは白でいい?」
濃いグレーのテニスバックからラケットを取り出す鳳にコクンと頷いて。
渡された真っ白なラケットを確かめるように握りこむ。
「頑張ってね、
ポンポンと頭を叩く鳳を見上げて頷く。
そして視線を動かして座席の上の方にいる樺地を見つけると、やはり一つ頷いて見せて。

呼ばれた涼やかな声に振り向くと、榊が手招きしてを呼び寄せている。
それにテクテクと近づいて。
目の前に立った小柄な姿の腕を榊は軽く叩いた。
「おまえの公式戦デビューだ。しっかりやって来い」
いつもどおりの表情の榊に、今度はしっかりと頷いて。
そしてコートへと目線を動かす。
ライン際に立つ、華やかな存在に目を細めて。
立ち止まったに近づくと跡部はその美しい曲線のあごに手をかけて上を向かせた。
鼻先が触れるくらいに顔を寄せて。
ギャラリーがどよめいた。
あまりにも親密な雰囲気に。
試合に出るということはその存在は男だということで、その彼が今あの跡部とキスをしそうな距離で見詰め合っていて。
そもそも本当に彼は男なのか。
ざわめきが客席を駆け抜ける。
けれど氷帝のテニス部員と応援に来ていた生徒たちは動揺することもなくその様子を眺めていた。
跡部がその少年、のことを大切にしていることなど氷帝では周知の事実。
いや跡部だけではなく、テニス部全員、とくに正レギュラーに大切にされていることは。
に危害を加えるようなことをすれば、それすなわち色々と周囲から干渉を受けて氷帝を退学することとイコールになる。
それほどまでに大切にされているのだ、この少年は。
中でも跡部はの整った顔をとても慈しんでおり、以前ふとした拍子にが枝で頬に擦り傷を作ったときは救急車まで呼ぼうとした始末である。
結局は跡部の送迎リムジンで病院へと連れて行かれたのだが。
に手を出すな”
氷帝内では校則よりも有名な決まりごとである。
「おまえで最後だ」
跡部が常と変わらぬ横柄な物言いで、けれどどこか優しく囁いた。
「氷帝の勝利を決めて来い。負けるんじゃねーぞ」
真剣な眼差しを受けては頷いた。
深く、しっかりと。
それに跡部は満足そうに笑って、コツンと額をあわせた。
小さく笑みを漏らして。
「行って来い」
コートへと送り出す。



がコートへ入ったのを見て、リョーマもラケットを手にベンチを立った。
他のメンバーはというと先ほどから繰り広げられている光景に唖然とするばかり。
「乾・・・・・・あの子ホントに男の子にゃの・・・?」
ポニーテールにされた黒髪を揺らして歩くに菊丸が呟く。
その頬はうっすらと赤く染まっていて。
別にが少女のように見えるわけではない。
小柄なのは越前とて変わらないし、顔の造作が整っているのは二人とも同じ。
それなのにが醸し出す雰囲気はどこか中性的で。
「・・・・・・おそらくね。氷帝にあんな選手がいたのか・・・」
「乾先輩も知らない奴なんですか!?」
ノートへとシャーペンを走らせる乾に桃城は目を丸くする。
青学一の情報網を持つ乾でも知らないとは。
強い存在は自然と噂になって広がるもの。
その欠片さえないということは、彼の実力がそう強くないからか、それとも。
「実力派なルーキーがいるのは青学だけじゃねーんだよ」
跡部が自慢するように青学ベンチを鼻で笑った。



腰までのネットを挟んで向かい合う二人。
伏せられたまつげを上げた顔が見たい。
その瞳に自分の姿が映るのを。
リョーマはその衝動を止めることなく声をかけた。
「ねぇ」
ピクリとまつげが震えて、緩慢な動作でまぶたが押し上げられる。
闇よりも深い瞳がまっすぐにリョーマを捉えた。
睨むわけでもなく、何かを訴えるわけでもなく、ただ無表情に。
寝ているときも美人だったけど、こっちの方がもっと綺麗だ、とリョーマは思った。
この瞳が感情に燃えるのを見てみたいと思う。
口元に自然と挑発するような笑みが浮かんで。
「アンタ、いくつ?」
たずねるとは小さく首を傾げた。
「年、それと身長」
付け足すようにリョーマが言う。
「・・・12歳。151cm・・・・・・」
「俺も12歳、151cm」
リョーマは満足そうに笑った。
何となく、何となくこの目の前にいる存在を手に入れてみたい。
沸き起こる感情が熱を持って。
「ねぇ、この試合俺が勝つから。本気でやってよね」
とりあえずは勝つことから始めようかと思い牽制を。
これで相手が少しでも怒りを感じてくれれば、後はこちらのペースに巻き込むだけ。
そう思ったのに。
「・・・・・・勝つのは俺、だけど」
何言ってるの、とは首を傾げる。
まとめられた黒髪がサラリと揺れて。
そのあまりの自然さにリョーマは目を見張った。
これは挑発する為に言っているんじゃない。
本気でそう思っているのだと。
しかも、何の疑うこともなく自然に。



黄色いボールを片手にリョーマは笑みを浮かべた。
ネットをはさんで向こうにいる存在に心を奪われながら。
本気で倒したいと思った。
何度かバウンドさせたボールを空高く放って。
ラケットを振り下ろす。



勝者だけが進める道を賭けて
今、最後のゲームが始まった。





2002年9月30日