隣の席のという人物は
勤勉で穏やかな性格をした、大人しい男子生徒だ。
図書委員会に所属していて、休み時間にもよく本を読んでいたりする。
かといって友人関係が悪いわけではなく、割と多くの知り合いがいるらしい。
大声で騒ぐ生徒が苦手な俺としては、彼は素晴らしい隣人だった。





彼と彼の関係は





午後の授業が始まって早30分。
古典の教師である初老の男性の声が眠気を誘い、クラスの半分がすでに夢の中でまどろんでいる。
教師は当然それに気付いているのだろうがあからさまに注意することはなく授業を進めていて。
すぐに生徒を叱らないところは見習わなければいけないな。
かといって調子に乗せるのは困りものだが。
ふと窓の外に視線を動かせば、紅葉した木々の葉が風にそよいでいる。
もう冬も間近だ。
あと半月もすれば手袋とマフラーが手放せなくなるのだろう。
そうしてまた一年が終わっていく。

俺と窓の間にはもう一つ座席がある。
視線を下ろせば隣人の生徒は教科書を広げながらもその上で小さな単行本を開いていた。
・・・・・・内職か。
きちんとノートを取っているところが寝ている生徒たちと違うが、それでも真面目とは言いがたい。
俺の視線を感じたのか彼が本から顔を上げた。
茶色のフレームをした眼鏡の奥の瞳とかち合って。
パチパチと二・三度瞬きをしたあとで、困ったように控え目に笑みを浮かべる。
そっと手を持ち上げると本の表紙をこちらへと向けて。
・・・・・・それは今教壇で話されている古典と同じ題名だった。
生徒向けの参考書ではなく、あくまで時代背景と作者の身上を考察して書かれている一般書。
教師の話す授業内容以上の資料が載っているだろう本。
・・・・・・これではどちらが内職なのか。
本末転倒だな、などと思っている俺にもう一度控え目に微笑んで、彼は本へと視線を戻した。

このという人物は俺にとってとても良い隣人だ。
騒がしくもないし、他人に迷惑をかけるでもない。
俺に話しかけてくるときは業務連絡のような内容がほとんどで、ときに日常会話を交すくらい。
茶色のフレームをした眼鏡をかけていて、黒髪はサラリと音を立てそうなほど癖のないストレート。
穏やかで控え目な態度はこの年代にしては珍しい。
けれど彼はクラスでも浮くわけではなく、目立つわけではないがいつも数人の友人たちと楽しそうに会話をしていて。
成績は優秀だし、体育も苦手ではないのだろう。
けれど彼はどちらかと言えば目立つのを好まないようで、常に一歩引いたところで物事を行っている。
我の強いテニス部の集団や甲高い声を上げるギャラリーを見慣れている俺の目に、彼はとても新鮮な存在だった。

授業終了まであと15分。
このあともう一時間受けたら放課後だ。
今日はとくにやることもないし、図書館で勉強でもしていくか。
部活を引退して2ヶ月以上が経つ今ではもうそれが日常となりつつある。
少し、寂しくも感じるが、また高等部へ進んだら以前と同じ日常に戻るのだろう。
今からそれが待ち遠しい。
また全国の強敵を相手に戦えることが、俺の胸に炎を燻らせる。
不動峰の橘、立海の真田に柳、そして───────。



バンッ



いきなり起った音に俺は思わず振り向いた。
今の今まで寝ていた生徒たちもビクッとして身を起こして乱暴に開けられた後方のドアを見る。
そこには─────
「・・・跡部・・・・・・」
引き開けたドアを片手に王様然として立っている姿。
千鳥格子のズボン、校章の入ったセーター、緩められたネクタイ。
少し明るい茶色の髪を揺らして立っている。
以前会ったのは関東大会だから・・・もう5ヶ月近く前なのか・・・。
けれど跡部はあのときと変わらない巍然とした雰囲気を纏ってそこに立っていた。
寝起きのクラスメイトたちが乱入者を見てざわざわと話し出す。
けれど跡部は好奇の視線に晒されることに慣れているのか、クラスゆっくりと見回して。
・・・・・・目が合った。
「あぁ? なんだ、手塚もこのクラスだったのかよ」
ポケットに手を突っ込んでこちらへと歩いてくる。
クラスメイトの視線もそれについて移動して。
「・・・授業中に何のようだ。氷帝も今は授業中のはずだろう」
時間割りなどは知らないが、この時間は大抵の学校は授業中のはずだ。
けれど跡部は唇を歪めて楽しそうに笑う。
「てめーに用があって来たんじゃねぇ。己惚れるなよ」
心底楽しそうに笑う跡部は少し腹立たしいが・・・。
俺ではない?
だがこのクラスで俺以外に跡部と知り合いな生徒がいるのか?
しかもこんな授業中に訪ねてくるような・・・。
考えに陥っていると、背後でコトンと何かが落ちるような音がした。
振り返れば小さな単行本が机の上へと落ちていて。
視界の隅で跡部が口を開くのが見えた。







呼ばれた名前。
誰もが一瞬声を失った。
クラスメイトが視線を動かすのと同じように、俺もゆっくりと顔を上げた。
隣席のへと向かって。
呆然とした表情で、黒目がちの目を大きく見開いたは、跡部を見つめたまま全身の動きを止めて硬直していた。
「おら、さっさと準備しやがれ。行くぞ」
横柄な跡部の物言い。・・・・・・本当に変わってないな。
だが・・・跡部とは知り合いなのか? 跡部の態度からするとそうなのだろうが・・・。
「え、ちょ・・・・・・・・・なん、で」
の動きが再開され、わたわたと慌てた様子で聞き返す。
「何でここにいるんだよ?」
心底動揺しているに跡部はハッと鼻で笑って。
「テメェが何度ケータイにかけても出やがらねぇからわざわざ迎えに来てやったんだろうが」
「え、だって、今授業中だし・・・・・・」
「俺様がかけてやってんだから授業中だろうと何だろうとさっさと出やがれ」
「いや、それは無理」
・・・・・・・・・・・・鮮やかな切り返しだな。
けれど跡部はそれに気を悪くした様子はない。・・・珍しい、と思ってしまうのは失礼か。
「・・・・・・ねぇねぇ、どうして君にあんなカッコイイ人が訪ねてくるわけ?」
「ホント、何か変な感じー」
ふと耳に入った席の近い女子たちの会話。
それは気がつけばクラスの至る所で交わされていた。
それを横目で見ながら何やら無言で応酬を返しあっている跡部とを見る。
・・・・・・たしかに跡部とが一緒にいるというのは、何か違和感を感じざるを得ない。
跡部は目立つ・・・・・・というか纏っている雰囲気が派手だ。
周囲のものを自分の色に染め上げてしまうような強烈な存在感がある。
逆には自分を周囲に合わせられる、地味というか大人しい存在だ。
容姿をとっても跡部とでは・・・・・・・・・どうしても跡部の方に目がいってしまう。
言い方は悪いが、が跡部の引き立て役のようになってしまう感は否めない。
けれど二人は一体どういう関係なんだ?
「・・・・・・・・・何で俺がおまえについて行かなくちゃいけないんだよ」
椅子に座ったまま、上目遣いでが睨む。
けれど跡部は笑う。・・・・・・何でそんなに楽しそうなんだ。
「教えてほしいか?」
「聞いて納得しない限り俺は行かない」
「・・・・・・ったく、相変わらずだな」
跡部は苦笑に近い笑みを浮かべ、の前に立つとゆっくりとした動作で腰を屈めた。
ザワッと教室内が揺れる。俺も、思わず目を見開いて。
の耳元に顔を寄せ、今にもキス出来そうな距離で跡部が笑う。
クラス中を見渡して見せ付けるように。
あまりの親密な雰囲気に教室が水を打ったように静まった。
女子の半数は赤く頬を染めて。
・・・・・・・・・教師は注意しないのか? そう思って教壇を見れば初老の教師はどうやらこの展開についてこれていないらしい。
まるで睦言を囁くかのように跡部が何事か耳打ちし、ゆっくりと体を起こした。
はというと眉を寄せて少しだけ考え込んだ挙句、机の上に落ちたままだった単行本を拾い上げて鞄へと仕舞い込む。
出ていたノートや筆記用具を仕舞いながら不本意そうに小さく愚痴を呟いて。
「・・・・・・・・・車で1時間、飛行機が手続きを含めて1時間半、空港からホテルまで45分、着替えも用意してもらわないと・・・ギリギリだ」
「だからさっさとケータイに出りゃよかったんだよ」
「俺はおまえみたいに不真面目な生徒じゃないんでね。―――先生」
ガタンと椅子を引いて立ち上がる。
は跡部よりも背が低いんだな。170センチあるかないか・・・。
「一身上の都合により早退させて頂きます。届けは明日にでも提出しますので」
それだけ言うと鞄を持ってさっさと教室から出て行こうとする。
クラス中の視線は呆然と二人を追っていて。
「―――――――ま、待ちなさい! 君は君とどういう関係なんだ? 許可なく他校生の出入りは禁止されていて・・・・・・!」
ようやく跡部の存在の訝しさに気づいたのか、教師が跡部へと問いかける。
扉に手をかけていたとその後ろにいた跡部が振り返った。
チラッと跡部がを見やるが、は教師にバレない程度に肩をすくめるだけでフォローをする様子はない。
それをいいことに跡部はニヤリと笑った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・こんな表情は試合のときぐらいしか見たことがなかったが。
心底楽しそうに笑うくせに、どこか企んだような顔だった。
「・・・・・・俺との関係?」
教室中に響く低めの声に女子生徒たちがうっとりと聞き惚れている。
跡部は容姿だけは極上だからな。後はテニスの腕と家柄もか。
けれど跡部の性格を知っている俺としてはその微笑が何がしかの警告のように思えて仕方がない。
そしてそれは外れていなかった。
跡部は見るものを魅了してやまない意地の悪い笑みを浮かべて宣言した。



「俺はのオトコだ」



ピタッと時が止まった気がした。・・・・・・・・・気がしたどころの話じゃなかった。
王者のように君臨している跡部を除いてクラス中が固まった。
頬を染めていた女生徒も、興味深げに見物していた男子生徒も、教壇の古典教師も、ドアを開けようとしていた本人まで。
綺麗に動作を停止した。
・・・・・・・・・そしてそれは俺も例外ではなく。
跡部・・・・・・・・・・。
は俺のもんだ。何か文句でもあんのか?」
「〜〜〜〜〜〜あるに決まってんじゃねーか! 何言ってんだよッ!」
真っ赤な顔でが振り返った。けれどそれは逆効果で。
バンッと跡部はの顔を挟んでドアへと手を打ち付ける。
自分とドアの間にを閉じ込めるように。
そして鼻先が触れるくらいまで顔を近づけて。



「テメェは俺のもんなんだよ。いい加減オチろ、



跡部の少し茶色に色づけられた髪と、の綺麗な黒髪が混ざり合って。
近づけられる唇。
女生徒の黄色い悲鳴。それがどこかピンクが混ざっているように聞こえるのは俺の気のせいか?
だけど跡部はそんなものを気にする様子もなく、そして―――――――。



「・・・・・・景吾っ!」



呼ばれた名前に唇が触れるか触れないかの距離で跡部が止まった。
茶色のフレームの眼鏡越しにを見つめて。
軽く笑って体を離す。
「わかりゃイイんだよ。おら、さっさと行くぞ」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」
真っ赤だった顔をさらに赤く染めて。
跡部はそんなに笑ったかと思うと先に教室を出て行った。
残ったのは真っ赤になったまま視線をさまよわせているのみ。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ちくしょ――――――ッ!!」
震える拳を握り締めていたかと思うと跡部が来たときと同じように乱暴にドアを打ち付けて出て行った。
ダダダダダダッ・・・・・・と廊下を走り去っていく音が聞こえて。
「景吾ッ! てめー覚えてろよッ!!」
・・・・・・・・・それは自分が相手の元から去るときに言う捨て台詞なんじゃないのか?
とにかくそうして乱入者とその知り合い(おそらく)は去って行った。
甲高い悲鳴(それが嬉しそうに聞こえるのは俺の気のせいか?)を発し続ける女生徒たちと、呆気にとられている男子生徒たちを残して。
・・・・・・結局と跡部がどういう関係なのかは判らなかったな。



色々な騒ぎもあったが時間は10分しか経っていなかった。
・・・・・・1時間や2時間は経過したかのように感じていたが。
いまだ騒ぎ続ける教室にため息をつきながら俺は窓から校庭を見下ろす。
そこには悠々と校庭を横切っていく跡部と後ろから走りよって跳び蹴りを食らわすの姿があって。
・・・・・・・・・・・・。
大人しい奴だと思っていた俺の印象はこの数分の間に見事なくらい変化したぞ。
二人は互いに手や足で攻撃を繰り返しながらも校門前に止めてあった黒塗りの車へと乗り込んでいった。
ベンツらしき車が発車して見えなくなっていく。
けれど教室はいまだ騒然とした状態のままだった。





<数日後、図書室にて>

「あ、あのっ先輩!」
「・・・・・・はい?」
「私っ先輩のこと応援してます! 頑張ってくださいっ!」
「私もですっ! 世間の目とか色々大変かもしれないけど負けないで下さいね!」
「・・・・・・・・・?」

「・・・・・・先輩、俺聞きたいことあるんスけど」
「何? 越前」
「タレ目で泣き黒子の男とデキてるってウワサ、本当っスか?」
「ぶッ・・・・・・・・・(ゲホッゴホゴホゴホ)!!」
「・・・大丈夫っスか?」
「・・・・・・あ、うん、へーき・・・。つーか何、そのウワサ」
「クラスの奴らが話してたんスけど。この前授業中に恋人宣言しにわざわざ来たとか・・・」
「断ッじて違う! 俺とあいつはデキてなんかいない! あぁもう・・・・・・最近女子が妙に親切だと思ってたけど・・・・・・・・・」
「女って好きっスよね、少年愛っていうの?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「で? 本当に違うんスか?」
「違うッ! 越前までそんなこと言うなよなぁ・・・」
「違うんならいいっス」

だってせっかく俺が目をつけていたのに、横から他人に持っていかれたら許せないしね?

先輩、この本どこっスか?」
「あぁそれは西洋の歴史の棚。上から三段目」
「うーっス」



本当に危険なのは一体誰なのか。
卒業を5ヶ月後に控えた秋、一人の少年の人生が嵐のように変化していきそうだった。





2002年11月3日